プロローグ

夜の街 5

 「では、おやすみなさいませ」
 「ああ」
 ライブ成功を祝う「ROA」の打ち上げが終わった後、涼は珍しくまっすぐ自分のねぐらへと帰った。峰谷が一礼をして寝室のドアを閉めたのを確認し、ベッドに身を投げた。鏡で見てはいないが、きっと、今にも泣きそうな表情を自分が浮かべていることを、涼は理解っていた。
 「バカだな、俺は……」
 峰谷に渡された葉書には、長屋のそれとは違って、同窓会の案内以外、何も書かれていなかった。本宮や佐山にも確認したが、やっぱり何も書かれていなかったのは自分だけらしい。それは、明らかな拒絶を意味していた。
 「鳴沢君なんて……大嫌い、です」
 五月がその大きな瞳に涙をいっぱい溜めて言ったのは、確か、卒業前のバレンタインデーのことだった。あんなことをして傷つけておきながら、彼女からのメッセージを期待する方が馬鹿だったのだと自分でもよく理解っている。でも、それでも期待したかった自分のおめでたさに苛立つしかない。
 「涼様……お休みのところ、申しわけないのですが、ちょっと宜しいでしょうか? 」
 涼がまだ起きていると判断したのか、峰谷がコーヒーをトレーに乗せて入ってきた。
 「何だ? 」
 涼はのろのろとベッドから身体を起こし、峰谷に視線を投げた。もう、その時にはいつもの平静な表情を浮かべていた。
 「……いえ、コーヒーを淹れすぎたものですから――」
 「はん。慰めならいらねーぞ……大体、あの頃の五月と今の五月じゃ、きっと随分変わっちまってるだろうから。ってか、会って幻滅するより、大分マシだ」
 涼はそう言いながら、峰谷が持っていたトレーからカップを取り、口をつけた。
 「……涼様、イソップ童話の『キツネとブドウ』をご存知ですか? 」
 「……黙れ」
 涼はそう吐き捨てると、峰谷にふっと背を向けた。
 「なぁ、峰谷」
 「何でございましょう? 」
 「……俺をバカだと思ってるだろ? 」
 「ええ。とても」
 峰谷の答えに涼はふっと微苦笑を浮かべた。そして、ただの独り言だと前置きをして、ぼそりと呻くように呟いた。
 「『好き』だよ、今でも、まだ。けど――」
 だが、それがあの時の、12歳の時の涼には出来なかった。その理由はたった一つだ。 「アイジンノコ」  たまに家の中でひそひそと聞こえていた、侮蔑混じりのその言葉が自分に向けられたものだと涼が気づいたのは、小学校に上がる少し前のことだった。幼い頃の記憶などほとんど薄れてはいるのだが、それだけは今でもよく覚えている。親族会議で父親の治彦が鳴沢家の当主に決まり、次期当主として涼の名が挙がった時、とある親戚の女からその言葉が出た。
 「確かに『リョウ』は治彦さんの子だわ。でも、『アイジンノコ』じゃない」
 後になって知ったことだが、その親戚の女は父親の異母姉に当たる人物で、いくら世間が以前よりはそういうことに寛容になったとはいえ、『アイジンノコ』が次期当主では世間的にはまだマズいのではないかと主張したのだという。まぁ、理屈としては立派な話だが、本音としては、涼と同じ年の自分の息子、流こそ次期当主に相応しいのだと言いたかったらしい。
 「ねぇ、『アイジンノコ』ってなぁに? 」
 親族会議に形式上参加していた幼い子どもたちはリョウを見た後、口々に自分たちの親に問いかけた。そして、涼自身は自分を膝に抱いていた祖母にそう問いかけたが、彼女はただ哀しい表情を浮かべて、「ここは空気が悪いから、庭で遊びましょう」と彼を外へ連れ出し、ただ微笑して沈黙を守った。しかし、親族会議以降、今までそのことに口を噤んでいた親戚たちは涼の前でもあからさまにそれを口にすることが増え、そう時間が経たないうちに、彼は祖母の沈黙の理由を、「アイジンノコ」の意味を知ることとなった。今まで母親だと思っていた景子が本当の母親ではなかったこと。京都のホステスだったらしい実の母親から、まだ生まれたばかりの頃に鳴沢家の玄関に置き去りにされたこと。景子が無駄な争いを避けるために自分の子どもを生むことを諦めたこと。それらの事実を全てを知った日から、涼は自分にとって家族と呼べる存在から遠ざかるようになった。今思えば、鳴沢家の疫病神としか言えない自分が、愛されることに罪悪感を抱いたせいかもしれない。
 「……涼様が背負う罪ではありませんよ」
 峰谷のその言葉すら涼には酷く虚しかった。


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