プロローグ

夜の街 3

    涼は自分の頭を小突いた相手が誰かをちらりと確認して、その人物の名を呼んだ。
 「セタ……何の用だ? 」
 「ん? たまには生意気なお前の顔を見たくなっただけだが? 」
 セタこと瀬田はそうからからと笑いながら、涼の頭をくしゃりと撫でた。そんな仕草の端々に大人の余裕を見せているそんな瀬田が妙に癪に障って、涼は無愛想に頭を撫でる彼の手を払いのけ、冷たく突き放した。
 「やめろ。子ども扱いすんなや」
 「子ども扱いするなって……俺からしたら、お前はまだ子どもだろう」
 「ふん」
 「そうやって拗ねるとこが、子どもの証拠だな」
 瀬田は手を払いのけられたことを気にしていないらしく、相変わらず余裕のある微笑を浮かべる。
 (ったく、こいつが相手だと調子が狂うんだよ)
 いつもと違って子どもじみた感情を露わにしている自分を先程からまじまじと珍しそうに見つめている佐山たちを気にしながらも、涼は瀬田にこう切り出した。
 「……で、本当は何の用だ? 俺の顔を見に来るってだけで、わざわざお前がここまで来るはずねーからな」
 「ああ、そりゃそうだ……涼、お前、ちょっとは家に帰ってやれよ」
 涼は瀬田が発した「家」という言葉にふっと微苦笑を浮かべた。瀬田の言う「家」とは涼の両親と使用人たちが住む実家に他ならない。ここ2、3ヶ月、涼は自身が所有するワンルームマンションには帰っているが、実家にはまともに帰っていない。
 「だって、帰る理由、ねーじゃん」
 「帰る理由ね……パピーが軒先で蓑虫化してるが? 」
 「それ、いつものことじゃねーか」
 涼はあっさりそう答え、脳裏にパピーこと父親の治彦が簀巻きにされて軒先からぶら下がっている、まさに蓑虫化している光景を思い出していた。実家では常に治彦の浮気を発端として、彼の妻であり、涼にとっては義理の母である景子との夫婦喧嘩が耐えない。そして最終的に治彦はいつも軒先に簀巻きになってぶら下げられる。それでも、また懲りずに治彦は「一夜のふぉーりんらぶ」と称して、浮気を繰り返す。そんな父親に「アンタはそもそも学習能力がないのか」と言ってやりたいが、それを言うに言えない事情が涼にはあった。
 「……遺伝子って偉大だな」
 瀬田がぼそりと呟く。治彦の女癖も確かに悪いが、その息子であるお前のそれも相当なものだと言いたかったのだろうと涼は理解っていた。確かに近づいてくる見栄えのいい女と適当にお互い楽しんだ後、あっさり捨てるとうのが、今の涼の恋愛スタイルだ。しかし、そういう涼のスタイルを理解した上で女たちが自分に近づいてきているのだからと涼自身は自分の女癖の悪さに全く罪悪感を感じていない。だから、瀬田にこう言い返した。
 「ふん……残念ながら、俺は特定の女がいるわけじゃねーからな。だいたい、俺が誘ってるわけじゃなくて、女の方から誘ってくんだしよぉ」
 「『据え膳食わぬは男の恥』って奴か? まぁ、パピーの問題はともかくとしてだ……本気で、たまにはちゃんと家には帰れって」
 「あー、理解った、理解った」
 涼は手をひらひらとさせて、まるで流すように適当な口調でそう返事した。涼のそんな様子に瀬田はふっと微苦笑を浮かべ、さらにこう付け加えた。
 「お前なぁ、今のままの生き方じゃ、絶対にいつか女から刺される。俺はそれだけは保証する」
 「ふん、嫌な保証だな……保証すんなら、もっといいことを保証してくれよ」
 瀬田のそんな言葉に涼はまるで笑いを堪えているのか、それとも泣くのを堪えているのか判別のつかない表情を浮かべた。
 「ああ、できればそうしたい、俺も。それじゃ、また、今度な」
 瀬田は涼のそんな表情から何かを読み取ったのか、そろそろ仕事の時間だからと、あっさりそこで引き下がった。
 (女に刺されるって? はん、そんだけ俺を好きになるような女、いるわきゃーねーだろ。女が好きなのは、俺じゃなくて――)
 瀬田の背中を見送りながら、涼はぼそりと心の中で先程の彼の言葉への反論を呟いていた。どんなに手酷く涼に捨てられたところで、女たちは絶対に彼を訴えようとはしない。それはその付き合いの間に涼が女に相当な金額のモノを貢ぐからであり、その金額が訴えて貰う慰謝料よりも遙かに高額だからだろう。
 そんな単純な事実が、涼には少し哀しかった。


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