プロローグ

夜の街 20

 「……あのぅ、鳴沢君、大丈夫、ですか? 」  
 頭上からそんな声が降ったのは、涼がダメージから立ち直り、そろそろと立ち上がろうとした時だった。涼はその声に嫌というほど聞き覚えがあった。
 「さ、五月……」  
 涼がのろのろと視線を上に向けると、そこにはパステルブルーのパーカーを着たあゆみが心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。どうしてこうもタイミング悪く遭遇するのだろうと思いながらも、涼は不意にここがどこであるのかを思い出し、慌てて問うた。
 「お、お前っ……ここ、どこか、理解ってんのか? 」  
 涼とあゆみがいるのは繁華街でも俗に言ういかがわしい系統の店が並ぶ界隈である。いくら昼間とはいえ、そんな所に自分ならまだ納得するが、そこに全く似つかわしくないあゆみがいる。ある意味、涼にとっては、非常に由々しき問題なのだが、あゆみはそんなことを全く気にもせず、相変わらずのんびりとした口調でこう答えた。
 「えっと……西香宮4丁目ですよね? 」  
 涼は思わずそんなあゆみに「誰が番地を答えろと言ったのか」と突っ込みたくなったが、そこは惚れた弱み、そんなところも可愛いと思ってしまう自分への苦笑を必死で噛み殺すしかなかった。
 「えと、鳴沢君? 」  
 必死で苦笑を噛み殺す涼をあゆみは首をかしげてじいっと見上げた。
 「っ……何で、お前こんなとこ、いんの? 」  
 あゆみにじいっと見つめられて赤く染まった頬に気づかれないようにそっぽを向きながら、涼はそう彼女に問うた。
 「えっとですね……今日、ずっと欲しかったDVDが発売されたんです。どーしても、どーしても、限定版が欲しかったから、朝からずーっとずーっと並んでたんです」  
 あゆみは涼の頬が真っ赤に染まっていることにも気づいていないらしく、ごく普通に、すっと彼の背後にある店を指さしにっこりと微笑んだ。その指先の示す店に涼が視線を投げた次の瞬間、彼は少しだけ言葉を失った。
 「んと……五月、あーゆーの、好きなの? 」  
 あゆみの指先が示す店、「めいとるーむ」はアニメグッズのみを取り扱い、営業時間の間は店の近辺でそういったカテゴリーに属する人間達がそれぞれの趣味を満喫している。正直、彼らとはあまりお近づきになりたくない涼としては、まさか愛しのあゆみがそういったカテゴリーに属しているとは、出来れば信じたくなかったのだが。頼むから自分の問いかけを否定してくれと願いながら、涼はあゆみの答えを待った。
 「はい……え? 何か、おかしいですか? 」  
 だが、そんな涼のささやかな願いなどつゆ知らず、あゆみはきょとんとした表情で彼の問いかけを肯定し、逆にそう問い返した。
 「いや」  
 涼は必死で平静を装いながら、あゆみに微笑した。先程、あゆみから離れなきゃいけないと自覚したはずなのに、本人を目の前にするとどうも実行できない自分を情けないと思う気持ちより、こうして彼女と話すことの喜びの方を優先してしまう。やっぱり、何だかんだ言おうと行動しようと、結局、自分はあゆみをとことん好きなんだと自覚しつつ、涼はきゅっと拳を握り締めた。
 「あ、あのさ、昨日はさ……」  
 だが、意を決した涼が昨日のことを口にしようとした瞬間、邪魔が入った。
 「……あゆみぃ、ここにいたのねぇ。どこ行っちゃったか、さー姉(ねぇ)さんは心配したじゃないのぉ」  
 そんなハスキーボイスとともに、不意にあゆみの背中にきゅっと抱きついてきたのは、彼女によく似た風貌のショートカットの女性だった。あゆみに良く似た風貌と、女性が口にした「さー姉」というフレーズに、きっと彼女はあゆみの身内だろうと、涼は思った。
 「さー姉がいけないんでしょ? 勝手に2階に行ってさ。本当にさー姉はいつも――」  
 あゆみは涼に対する態度とは全く正反対のひどくうちとけた態度でその女性に説教を始めた。それはまるで母親が子どもを叱る姿にも似て、涼はふっとその姿に目を細めた。
 「本当にさー姉は……あっ、ごめんなさいっ」  
 数分の説教の後、涼の存在を思い出したらしく、あゆみは慌てて彼に向き直った。そして、女性を自分の3番目の姉、沙穂だと紹介し、沙穂に涼を小学校の同級生だと紹介した。
 「まさかぁ、キミぃ、あゆみの彼氏クン? 」  
 沙穂のからかい混じりの問いかけに涼がどう答えようか微苦笑混じりに迷っていると、あゆみが慌てて彼女の足をきゅっと踏んだ。
 「そんな質問、冗談でも笑えないよ? 」   
 あゆみの言葉に悪意がないのはよく理解っていた。しかし、その言葉は意を決し、打ち砕かれた涼の胸に深く、鈍く、突き刺さった。

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