プロローグ

夜の街 19

 「全く、貴方ってお方は……」  
 今朝からもう峰谷のそのフレーズは何度目だろうと、涼は眠気の中でぼんやりと考えていた。七世と別れたのが朝5時。それから、着信履歴と留守電がすっかり世話係(ミネヤ)の文字で埋め尽くされた携帯で峰谷に連絡し、車で迎えに来て貰った。いつもの峰谷ならこうして迎えをすっぽかして朝帰りすることにもそれほどぼやかないのだが、今日は違った。
 「何……んなに、その客、俺にとって重要な相手だったのかよ? 」  
 涼は眠たげな声で、運転席で相変わらずぷりぷりしている峰谷にそう問いかけた。
 「ええ。とっても大切なお客様でした! 涼様がいらっしゃらなくて、本当に本当に残念がっておられました」
 「で、それ女? 」  
 涼が投げやりな口調でそう訊ねると、峰谷が不意に車を停めた。そして、涼の方を振り向き、真面目な顔でこう言った
 「……五月様です。涼様が同窓会に行かれなかったのはご自分のせいだと、わざわざ心配して来られたんですから。さすがに11時にはご家族が心配なさるといけないですから、ご自宅にお送り申し上げましたが」
 「…………」
 「涼様、ちゃんと私の話、聴いていらっしゃいますか? 」
 「んー」
 「あのですね、今日の夜にでもちゃんと五月様のご自宅に伺って、ちゃんとご自分のお気持ちを……」
 「峰谷、ちったぁ黙れ」
 「は? 今、何と仰いました? 」
 「ちったぁ黙れって言ったんだ。俺が五月にどう思われようと、どうしようと、俺の勝手だろ。いくら世話係とはいえ、お前にとやかく言われる筋合いなんてねーんだよ」  
 涼は冷たい口調でそう言い放つと、不機嫌そうに車から降りた。慌てて背後から峰谷が追ってくる気配がしたが、涼はそんなことは構わず、すたすたと雑踏に紛れ込み、彼を撒いてやった。
 「……だから、もう、関わらない方がお互いのため、なんだよ」  
 今、あゆみに逢ったら、関わったら、きっと無意識にせよ、彼女を傷つけてしまう、汚してしまう。そんな確信めいた予感が涼にはあった。真っ白な布はちょっとした汚れにもすぐ染まる。その真っ白さをこよなく愛するものにとって、それは絶対的な悪である。真っ白な布のようなあゆみ、汚れのような存在の自分、だから、自分は彼女の存在を遠くから想うしかできない、近づくことを望んではいけないのだと必死で言い聞かせ、涼はぼそりと小声で呟いた。
 「……ったく、どっかで寝ないとな」  
 昨夜は七世と思い切り戯れたため、涼は完全な寝不足だった。どこか適当な場所を探さなければなぁなどとフラフラと彷徨い歩いていると、不意に背後から蹴りを入れられた。
 「っ……何だよっ」  
 バランスを崩しそうになるのをどうにか堪え、涼は自分を蹴った相手の方を振り返った。すると、そこには見た目からしてダブダブの黒いパーカーを羽織り、紺のキャップを目深にかぶった子どもが口元を歪めて立っていた。
 「何、笑ってんだよ」  
 相手が子どもらしいと判断し、涼は一瞬だけ振り上げた拳を降ろしながら、代わりにじろりと睨み付けた。
 「みっともないから」  
 子どもはまるで小馬鹿にした口調でそう言い放つと、けらけらと笑った。目深にかぶったキャップのせいでその顔を知ることはできないが、その笑い声は涼の神経を逆撫でした。しかしながら、相手は子どもであり、それに本気でどうこうするのは大人げない。そこで、涼は相変わらずじろっと睨み付けながら、子どもにつかつかと近寄った。だが、子どもはまるで涼の動きを読んでいるかのように、すぅっと後ろに下がり、彼を近づけなかった
 「てめー、逃げるのか? 」
 「ふん……逃げたアンタに言われたくないね。あのコがどんな気持ちだったかも、知らないくせに」  
 子どもは酷く冷たい口調で吐き捨てるようにそう呟き、すっと涼に背中を見せた。
 「あのコ? おい、待て、このクソガキ! 」  
 唐突に訳の分からないことを吐き捨てて去って行こうとする子どもを、涼は後ろから捕まえ、勝ち誇ったようにこう宣言した。
 「もう、逃げらんねーぞ。大人を小馬鹿にしたら、どーなるか思い知ら……えっ? 」  
 子どもが急に自分の足の甲を踏もうとしたので、涼は慌ててすっと足を引いた。すると、子どもは腰をずらし、肘を支点にして、涼の急所に攻撃した。さすがに涼も男である、急所を思い切り殴られたダメージでうずくまったその隙に、子どもに逃げられてしまった。

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