プロローグ

夜の街 17

 (……ったく、佐山のヤツ、言いたい放題言いやがって――)  
 明日も早いからもう帰るという佐山と別れた後、涼は再び夜の街中を足早に歩いていた。時折、雑踏にたむろっている同世代の群れにちらりと視線を投げかけつつも、涼の足は止まりもしなかった。とはいえ、特にどこかに行かなければならないという事情もなければ、目的地もない。ただ、夜の街の中でまだ彷徨っていたかった。
 「……あっ、リョウじゃない。今、ヒマなのぉ? だったら、遊ぼうよ」
 「悪い、また今度な」  
 途中、何人かの遊び相手にも遭遇したが、さらりとその誘いを却けた。
 「……気持ち悪りぃ」  
 何かの拍子に、不意に自分の身体から立ち上る甘い香りに、涼は思わず呟いた。あの時、エリにあゆみの面影を重ねてしまうことを恐れ、早く離れようと焦っていた。そのせいで、コトの後、シャワーを浴びるのをすっかり忘れていた。エリの残り香はひどく甘ったるく、まるで見えない鎖のように、涼の身体をギリギリと締め付けた。
 「……ちいっ」  
 まとわりつく甘い香りに涼は軽く舌打ちを打ち、近くにホテルがないか探した。備え付けの安っぽいシャワージェルで身体を洗い、今すぐこの甘ったるい香りから解放されたいという切なる願望。しかしながら、近場にはまともなホテルがない。繁華街に限ったことではないが、ホテルといってもピンからキリまである。どうやら、この辺りのホテルはどれもキリばかりのようだ。
 「……ったく」  
 仕方ない。もう夜の街の徘徊は諦めて自宅マンションに帰ってシャワーを浴びようと決め、涼は携帯で峰谷を呼んだ。コール音が三度鳴るか鳴らないうちに、峰谷は電話に出た。
 「涼様、何か御用でございましょうか? 」
 「ん。迎えに来い」
 「承知いたしました。では、今どちらにいらっしゃるのですか? 」
 「あん? ああ、街の4丁目あたり? 」
 「それならば、10分程度でお迎えにあがりますので。それから、涼様、お客様がお見えですので、ご一緒にお連れしますが、宜しいでしょうか? 」
 「は、俺に客ぅ? ってか、峰谷、今、どこにいんの? 」
 「お屋敷に決まっているじゃないですか。じゃ、その方もお連れしていいですね? 」
 「だ、だから、それ誰だ……ったく、電話切っちまいやがった」  
 自分の質問に答えもせず、電話を切ってしまった峰谷に思わず涼は微苦笑を漏らした。多分、峰谷のいう客とは自分にとってはあまあまり会いたくない客に違いない。涼に誰かを教えたら、それこそ会わないだろうと踏み、峰谷は電話を切ってしまったのだろう。
 「……サイアク」  
 涼はそう呟きながら、フラフラと大通りに出た。大通りは街を行き交う車と飲んでいるサラリーマンやOL、学生たちを待ちわびるタクシーの縦列駐車でかなり渋滞している。
 「10分じゃ……間に合わねーよな、きっと」  
 佐山たちから「スーパー世話係」と称されている峰谷とはいえ、この渋滞を何とかできるはずもない。それを求めるのはあまりに酷だ。峰谷が来るまでの時間潰しと、涼はポケットから煙草を取り出し、火を点けた。暗闇の中にゆらゆらと紫煙が溶けるように消えていくのを眺めながら、涼はぼんやりと先程の佐山の言葉を考えていた。  
 (ヤバい連中にモテるか……まぁ、俺には五月がどーなろーと関係ねー話、だよ、な)  
 そんなことを思いながらも、心のどこかで「関係なくなんかない」と必死で主張する自分の存在に、涼はふっと微苦笑を浮かべた。実際、自分だって佐山の言葉を借りれば、あゆみにとって「ヤバイ奴」だろう。色々と起こった厄介事に嫌気が差して行かなくなった学校、滅多に帰らない実家、飽きればあっさり終わらせる恋愛。どこをどう見ても、あの清廉潔白なあゆみから見れば、「ヤバイ奴」だろう。関わらない方がお互いのためになる。
 「ちょっと、兄さん、火ぃ、くれない? 」  
 涼をそんな回想から引き戻したのは、少しハスキーがかった女の声だった。涼が声のする方をちらりと見ると、そこには黒髪の女が咥え煙草で立っていた。見たところ、女はどうやら自分と同世代らしいと判断し、涼は黙って彼女の煙草に火を点けてやった。
 「ありがと」  
 ふっと紫煙を吐き出した後、女はどこか渇いた声でで礼を言った。
 「別にいいさ」  
 涼はそう冷たく言い放つと、再び煙草をふかして空を見上げた。女はそんな涼に言った。
 「ねぇ……淋しいから、今、付き合ってよ」

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