プロローグ

夜の街 11

 「悪かった、この通りだ」  
 下手な小細工はなしで、もうここは素直に謝ろうと、涼はあゆみにぺこりと頭を下げた。すると、あゆみはごしごしと腕で涙を擦り、まだ湿り気の残った声でこう答えた。
 「いえ、私こそ、泣いちゃってすみません……その、あ、頭、あ、上げて下さい」  
 あゆみの声が困惑している。どうやら、涼が自分に向かって頭を下げるという行動をとるとは思っていなかったらしい。涼がおそるおそる顔を上げると、非常に心配そうな表情で自分を見つめているあゆみとばっちり視線が合った。
 「あっ」
 「……ご、ごめんなさいっ」  
 二人とも慌てて視線を外す。本宮によれば、それはまるで事前に話し合ったかのように同時だったらしい。微かにあゆみの頬が赤みを帯び、そして涼もうっすらと頬を染めている。
 『いい雰囲気だから、俺はそろそろお暇するぜ。頑張れよ、涼』  
 あゆみの背後で本宮が唇だけを動かしてそう笑った。涼はそんな本宮に向かって小さく頷いた。先程、一瞬だけ並々ならぬ殺意を抱いた相手とはいえ、涼は本宮に少しだけ感謝はした。だが、本宮のことだからあちこちで今のことを吹聴するだろうし、その結果、後で他の友人からメール攻撃を受け、今日のことを根掘り葉掘り訊かれるのだろう。ただ、そんな煩わしいことをさっ引いても、こうしてあゆみと二人きりで話せるチャンスが出来たことが涼は嬉しかった。涼は何とか話題を作るために、こう切り出した。
 「さ、五月ってさぁ……その、今、どこの学校に行ってる? 」
 「えっと……香宮女学園の中等部です 」  
 香宮女学院とはこの辺りでも結構名の知れた全寮制の女子校である。私学ではあるが、将来を担う淑女の育成を謳い、奨学金制度や特待生制度などが非常に整っている。そのため、たとえ家が裕福ではない生徒であっても、ある条件さえ満たせば入学出来る。しかしながら、校風は厳格かつ質素で、校則は非常に今どき時代錯誤だと言われるほど厳しい。そのため、別名『銀の鳥籠』とまで呼ばれており、そこに通うのはごくごく限られた、非常に真面目な生徒ばかりだった。  
 (ああ、なるほどね。だから、擦れてないんだな……けど、五月に合ってるんだろうな、それが)  
 涼はそう内心思いながら、あゆみの通う学校を同世代がよく使う俗称で呼んだ。
 「へぇ、『銀の鳥籠』に行ってるんだ」  
 すると、あゆみがあからさまに嫌そうな表情でこう抗議してきた。
 「あのぅ、そんな言い方しないで下さい」
 「え? 」
 「ごめんなさい……鳴沢君に悪気はないのは理解ってるつもりです。でも、その黙っていられなくって。だって、鳥籠って言い方、まるで自分の意志じゃない学校に閉じこめられてるって言われてるような気がして。少なくとも私は、自分で選んで入った学校だから、そんな言い方、して欲しくないんです」
 「あ、ああ、悪りぃ。その、そんなつもりで言ったんじゃねーんだ……つーか、その、ごめん」  
 涼は再び素直に頭を下げた。すると、あゆみははっと我に返った様子を見せ、何故か慌てた。
 「い、いえっ、その、あの、別にその、そんな、謝っていただくほどのことじゃ、なくて ……あの、こちらこそ、ごめんなさい」  
 非常に恐縮した口調であゆみはそう言うと、ぺこっと涼に向かって頭を下げた。その様子があまりに可愛らしくて、涼は思わずぷっと吹きだした。
 「な、何ですか? あの、私、その、変なこと、言いました? 」
 「いや……可愛いなって思った、だけ」  
 涼は素直に思ったことを言ったのだが、不意にあゆみの頬が真っ赤に染まり、急にその表情がどこか厳しいものに変わった。
 「か、からかわないで下さいっ! 」
 「え? 」  
 あゆみの様子が豹変したことに、涼は一瞬びくっと身体を震わせた。言葉一つで女が豹変することは経験上よく知っていたが、まさか褒め言葉でそうなるとは思わなかった。
 「そ、そうやって、他人をからかって、面白いですか? 」  
 あゆみの瞳が、声が微かに潤んでいる。別に泣かせるようなことは言っていないはずなのにと、涼はただただ困惑するしかなかった。
 「い、いや、からかっては、ねーけど……むしろ、その、普通に思った――」  
 涼は必死で自分の言葉が本音だと伝えようとしたのだが、あゆみは彼の言葉を待たず、自分の荷物類をぱっと掴むと、振り返りもせず、その場から走り去ってしまった。

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