第四章

突き放す優しさ 9

 (な、何なんだよ、いきなりーー)  
 義母の思わぬ発言のせいだろう、涼は少し動揺していた。あの狸祖父から頭を撫でられるわ、憎まれてたと思ってた義母からは「私の子ども」宣言されるわ、正直、今すぐここで頭と感情を一気に整理したい。
 「りょぉー、もう帰るのか?」  
 玄関を出た途端、頭上から降り注ぐ間抜けな声。その声の主、父、治彦こそ、そもそもの諸悪の根源なのは疑うべくもない事実だ。涼はそんな思いも込めて、じろりと頭上の父を睨み付ける。だが、治彦は息子から視線を向けられたことが嬉しいのか、子どものような満面の笑みを浮かべて、ゆらゆらと身体を揺らしている。
 「りょぉーっ! 今度はいつ帰ってくる?今度はワシとも話をしよーなぁ」  
 (アンタ……俺にさっき散々凹まされたことに懲りていないのかよ)  
 思わずそう毒気づきたくなったが、治彦の幼子のような笑みを見ていると、もう何を言う気力もなくなってしまう。幼子のような笑顔で場を和やかにする、それが治彦の魅力なのだろう。しかし、それに簡単に屈するのも何だか面白くない。だからこそ、涼は治彦の言葉が聞こえないフリをしながらも、口元に微笑みを微かに浮かべて、俯いた。
 「りょぉーっ、りょぉーっ!」  
 ご近所迷惑必至な大声で喚き散らす治彦の声を背にして、涼はスタスタと歩き始めた。すると、どこにいたのか、峰谷がすっと寄り添ってきた。
 「……いいんですか?」
 「何が?」
 「いいえ、何でも」  
 答えずともお前はきっと俺の思惑などお見通しなのだろうと、峰谷の微笑みに涼はふっと恥ずかしそうな微苦笑を浮かべた。
 「……しかし、見合いの件は面倒なことになったな」
 「涼様、どうやら更に面倒なことになりそうですよ」
 「更に?」
 「どうやら、平嶋氏が馴染みの記者に今回の一件を洩らしたようで……」
 「やっぱり、な」  
 勿論、予想はしていた。元々、平嶋の地位は記者とタッグを組んで葬った政敵の屍を積み上げて作られたもの。今回、事態が思うように進まないことに業を煮やした平嶋がその手段を使わないはずがない。
 「ええ……こちら側がなかなか思うように動かなかったせいでしょうね」
 「んで、平嶋の立場的には『娘が弄ばれた被害者』って体だろ」
 「仰るとおりです。今はまだすぐに潰せる規模なのですが……これ以上、事態を長引かせると、色々と厄介になるかと思われます」  
 「すぐに潰せる」という言葉を口にした瞬間、峰谷の微笑みに、ほんの一瞬、黒い影がゆらりと揺らめいた。涼はそれを面白がるような笑みを浮かべた。
 「峰谷……」
 「何でしょうか?」
 「お前……良い秘書になると思うぜ」  
 涼がさらりとそう言うと、今度は峰谷は先程とは全く正反対の、子どものような笑みを浮かべた。
 「ありがとうございます……しかし、私がお仕えするのは貴方様だけですからね」
 「好きにしろ……ってか、お前ぐらいじゃねーの、俺に付き合えるほど、酷い物好き」
 「はい、ありがとうございます」
 「ばーか……褒めてねーっての」  
 やけに素直に峰谷を褒めてしまった自分に気付いて、涼は思わず俯いた。きっと今、自分の頬は微かに赤くなっているのだろう。しかし、そんな照れくさい感情に長々と浸っていられるほどの余裕はない。峰谷の言うように今はまだすぐに潰せるレベルかもしれないが、放っておけば手のつけられない問題に発展する恐れもある。その上、あゆみの父親が出て来たともなれば、いくら面倒であっても今から対策を講じておいた方がいいだろう。そうなるとまず、会いに行かなければならないのは……。
 「峰谷」  
 涼は先程よりも声のトーンを下げて、世話係の名を呼んだ。すると、峰谷は涼の真意を知ったのだろう、同じような声のトーンでこう返事した。
 「承知いたしました」  
 七世が大量に薬を服用するまでに壊れてしまったのは八葉のせいだと思う反面、自分のせいだという妙な罪悪感はある。しかし、だからといって手を伸ばせばまだ届きそうな、目の前の幸せを諦めることなどできない。
 「どうやら……もうすぐ雨、みてーだな」  
 ふっと鼻先を過ぎった、湿った風の匂いに涼は低い声でそう呟いた。

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