第四章

突き放す優しさ 2

 多少落ち着いたとはいえ、精神的に不安定な七世を一人で帰すわけにいかないと判断した涼は彼女を平嶋邸に送り届けた。平嶋邸に七世を送り届けたのが正しい判断だったのか、それともそうでなかったのかは分からない。ただ、自分の部屋にもう入れるわけにはいかなかった。七世を送り届けた時に在宅中であったらしい平嶋氏が「まぁ、家にあがって」とほろ酔い気味に執拗に誘うのを笑顔で黙殺し、涼はさっさと平嶋邸を後にした。
 「……とんでもない男でしたね、八葉は」  
 涼が後部座席に乗り込むと、運転席から峰谷がそう呟いた。その声は普段と同じ穏やかなものであったが、その奥底には言いようのない怒りが流れていると、長い付き合いの涼には分かった。
 「まぁ……代議士ってのはイメージが大事だから、身内のスキャンダルも命取りなんじゃね? 野党に転落してる今なら尚更そうだろ。んな代議士の不良娘がカモになるのは当然だな」
 「涼様……」  
 峰谷からどこか咎めるような声で呼ばれる。何故、峰谷がそんな声で自分を呼ぶのかは理解っている。だが、自分が同情したところで七世は救われない。逆にまた自分に好意を寄せられても困る。だから、突き放すしかない。
 (こういうことだったのかよ……祖父さん)  
 涼の脳裏に以前湧と交わした言葉が蘇る。
 「小娘が無事に逃げ出したとしても、その二人がどうなるかは、ワシらには責任が持てん」  
 湧は今回の事態をその長い経験から予想していたのかもしれない。だからこそ、あんなことをわざわざ口にし、涼に「最終的に何があっても、お前が気に病むことはない」と暗に不吉な結末の予告をすることで釘を刺したのだろう。
 (考え過ぎか……けど、一応、妖怪だもんな、祖父さんは。ってか、どうやって今後ナナセとの見合いを断るかが問題だな)  
 涼はぼんやりと車窓から流れる、週末の駅通りの景色を眺めながら、そんなことに考えを巡らせていた。すると、不意に車が停まった。信号待ちかと前を見ると、峰谷が道の脇に車を停止させただけであった。
 「おい、峰谷。どういうつもりだ? 」
 「……涼様、あれを――」  
 急に車を停めたことを咎めようとした涼に、峰谷は視線で横の歩道のやや前方を見るように促した。
 「何だよ、歩道に何が……」  
 涼はそこで言葉を失った。というのも、そこには学校帰りと思われる制服姿のあゆみが鞄を背負い、とてとて歩いていたからである。
 「……ちょうど良かった。はい、これ」  
 峰谷はにんまりと微笑むと、相変わらずあゆみに見とれている主人の鼻先に、先程どうにか完成したばかりの薄桃色の封筒を差し出した。涼は不審そうに峰谷を睨み返した。
 「……な、何だよ」
 「ここでお逢いになったのも何かの縁。直接ご自分でお渡しになった方がよろしいでしょう。まぁ、今の状況だとまともに五月様とお話はできないでしょうから、お手紙を渡したらすぐ車に戻って来て下さいね」  
 峰谷はそう言い放つと、善は急げとばかりにそそくさと後部座席のドアを開け、半ば涼を引きずり出すような形で車から出した。幸い、まだあゆみは涼に気付いていないらしく、50メートル先をぽてぽてと歩いている。
 「頑張ってください」  
 峰谷が小声でそう言いながらガッツポーズをする姿に涼は思わず「うるせー」と言いそうになったが、あゆみに逃げられてはいけないので、どうにかそれは喉に押し込んだ。とはいえ、50メートル先を歩くあゆみに手紙をどう渡せばいいのか、全く見当もつかない。
 (渡せって……今、振り返らなかったか? )  
 考え事をしている間に、あゆみが不意に立ち止まって振り返った気がして、涼は慌てて近くにあった電信柱に隠れた。
 (気のせいだったか……)  
 涼がおそるおそる電信柱の影からあゆみの様子を伺うと、既に歩道に彼女の姿はない。
 (逃げられた……やっぱ、気付かれたのか)  
 涼は落胆しながらも、もう一度歩道を見渡した。すると、今涼がいる電信柱から約5メートルほど離れた看板の陰に隠れている、あゆみの姿が視界に入った。どうやら、あゆみは看板より少し先にある街灯に寄りかかっている人物に気づき、そいつに見つからないように隠れたらしいと涼には分かった。
 (良かった、見失わ……って、あいつ! )  
 涼がその人物の顔を見るためにすっと瞳を細めると、憎たらしい八葉の顔があった。涼はぐっと唇を噛んで、あゆみの方に視線を戻した。5メートル先からでも、あゆみの小さな肩がガタガタと震えているのが判る。一体、あゆみと八葉の間に何があったのかは理解らない。ただ、放ってはおけなかった。

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