第四章

突き放す優しさ 17

   「ちなみに……アンタ、その生みの母親ってのに、会ったことあるの? 」
   気の遠くなるような長い沈黙の後、そう話を切り出したのはアユミだった。
   「いや、全然」
   アユミの問いかけに涼はゆっくりと首を横に振った。実際、何度かあちらから「会いたい」と連絡はあった。しかし、涼には会う理由もなければ、「会いたい」という人間らしい感情のひとかけらすらも浮かばなかった。だから、自分を生んだ女の顔すら知らない。すると、アユミは心を読んだらしく、ふと苦笑いを浮かべた。
   「会いたいとか……思わなかったんだ」
   「ああ……だいたい、俺を生んだ報酬とかで、未だに金を要求するような女みてーだから」
   会ったことはないものの、金銭を要求する内容の電話の応対をしている詠の後ろ姿を見たことがある。その時、漏れ聞こえてきた女の声は酒に酔っているような、どこか気怠そうなものだったのは覚えている。ただ、それが自分を生んだ母親の声だと知ったのは、後になってだったが……。
   「……会ったこともないのに、似てるかもなんて心配してるわけ? 」
   「会ったことがねーから、分かんねーから、心配なんだよ」
   涼が吐き捨てるようにそう呟くと、アユミは深い溜息をついた後、静かにこう告げた。
   「似てないわよ、アンタとあの女は」
   「はぁ? 何を根拠にそんなこと……」
   「だって、あたしは実際にあの女と関わってたのよ……短い間だったけど、濃厚だったし」
   アユミは思い出したくもないと言わんばかりに顔をしかめ、更にこう続けた。
   「それに、『このコ』だって……もし、アンタがあの女に似てたら、まず好きになんてならないと思うわ。むしろ、避けると思う。いくらあたしがその記憶を引き継いだからって、全部忘れてるわけじゃない。あんな嫌なこと、頭で忘れられたって、心には消えない傷がざっくり深く残っちゃってるんだから」
   「それでも……俺は怖いよ。このまま、突っ走っちまったら、五月を、アイツを気づかねーうちに傷つけちまうんじゃないかって――」
     涼が呻くようにそう呟くと、アユミは呆れたような深い溜息をふうっとついた。
   「気づかないうちに傷つけちまうって……とっくに現時点でそれなりに傷つけてるって。アンタ、自分が今までやらかしたことが問題ないって思ってるわけ? 」
   「そ、それは……」
   確かにアユミの言う通りだった。涼はもごもごと唇を動かし、言葉を濁した。しかし、アユミが追撃の手を緩めることは全くない。
   「だいたい、好きな男と他の女のキスシーンを見たりしてる時点で相当ぐっさりキてるって」
   「悪かったと思ってる……」
   「それでも……アンタのこと、『このコ』は『好き』なのよ」
   アユミはふっと溜息のようにそう漏らすと、肩をすくめた。そして、さらにこう続けた。
   「それなにに、アンタは、い・ま・さ・ら、ここで『相応しくない』だの『傷つけちまう』だのって、尻尾を巻いて退散するんだぁ」
   挑発するようなアユミの口調に、涼は思わず反発した。
   「んな、ワケがねーだろ……っ」
   「じゃぁ、どういうつもりなワケ? 」
   「そ、それは……」
   ついアユミの挑発に乗って言い返してはみたが、涼には返す言葉が見つからない。だから、口ごもるしかなかった。だが、アユミにはそれは想定内のことだったようだ。
   「ねぇ、バカ涼」
   「何だよっ」
   「アンタさぁ……考えすぎなところもあるわよねぇ。まぁ、生まれ育った環境諸々の関係でしょうけど。も少し気楽になんなさい」
   「……それが出来てたら、今更こんな風にうだうだ悩んでねーよ」
   「……まぁ、そりゃそーねぇ。でも、だからって、『このコ』に放置プレイをかましてる余裕ある? 」
   アユミがにまーっと唇の端を吊り上げて微笑んだ。
   「何が言いたい? 」
   「まぁ、た・ら・し・のアンタでさえ惚れるような『このコ』を他の男らが放っておくとでも思う? 」
   「……だって、五月、モテないって自分で――」
   「そりゃ、『このコ』は自分の恋愛に関しては頭に『超』が三つばかりつく程の鈍感だから……普通は気づくはずの、自分に向けられた男の好意に気づかないの。だいたい、アンタの気持ちだって、直接言われて初めて気づいたの。あれ、保護者としては気を揉むわよ」
   アユミの溜息がその苦労を物語っていた。
 

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