第四章

突き放す優しさ 16

 (嫌なこと、思い出しちまった)
 湧との電話を終えた後、涼は不機嫌そうに机の上に突っ伏した。峰谷はそんな涼の様子に気付いたのか、「コーヒーを淹れてきます」と苦笑いを浮かべて、部屋を出て行った。
 (……ったく、考えねーようにしてたのに)  
 中学生になってすぐ始めた小遣い稼ぎの仕事。それが軌道に乗ると、まるで逃げるように家を出て、マンションで暮らし始めた。周囲には「こっちの方が気楽だ。縛られたくない」的なことを言ってのけていたが、本当は「自分がいるから不幸になる」という思いが心の隅にこびりついていたからだった。
 (俺と関わると……やっぱ、不幸になんのかなぁ。親父と義母さんが仲良くなったのも、俺が家を出てからだし――)  
 嫌なことを一度思い出してしまうと、そこから一気に負の思考へと切り替わってしまう。それが自分の悪い癖だとは理解っているものの、涼はそれをやめることが出来なかった。
 「……で、またあのコの前から『フェードアウト』しちゃうわけ? 」  
 聞き覚えのあるその声にふと涼が顔をあげると、見覚えのある、醒めた黒い瞳と視線がぶつかった。
 「アユミ……どうして、ここに? 」
 「ちょっと、昼間の幽霊を見るような目で人を見ないでくれる? あたし、足あるから」  
 アユミはわざとらしくそう言い放つと、ぺしっと涼にデコピンを喰らわせた。
 「っ……何、すんだよ」  
 涼は額を押さえながらそう怒鳴った。
 「気合い入れてやったのよ、感謝しなさい」  
 しかし、アユミは涼のそんな怒鳴り声をさらりと聞き流し、ぐっと彼に顔を近づけた。
 「な、何だよ」  
 いくら中身が違うと理解ってはいるものの、外見は寝ても覚めても想っているあゆみの姿なのだから、涼は想わず赤面し、顔を背けた。だが、アユミはそれを許さず、両手で涼の頬を挟み込み、自分の方を向かせた。
 「アイツ、こっちが訊きもしないのに色々とぶっちゃけてきた」  
 アイツが誰で、「ぶっちゃけてきた」内容が一体どんなことだったのかは訊かなくても理解っていた。
 「それで、五月は? 」
 「ああ、あのコにはその話自体、聞かせてないわよ。だいたい、待ち伏せしてるアイツにあのコが気付く前にあたしが表に出て来たし……」
 アユミの話によれば、駅で柳瀬に待ち伏せされ、そのまま近くの喫茶店に連れて行かれたのだという。
 「……大丈夫、だったのか? 」  
 いくらアユミの精神面が強かろうと、やはり自分に危害を加えた男との突然の遭遇に相当なダメージを喰らっていることは容易に想像できる。それゆえ、涼はそう問いかけた。
 「刺してるわ、あたしだけなら……でも、結果的にそうなると大事な『このコ』の手と未来を汚すことになるから」  
 アユミは涼の頬から両手を離すと、愛おしげにそれらを見つめ、静かにそう答えた。
 「……そっか」
 「まぁ、アイツがぶっちゃけた話のおかげで、だから、どっかの馬鹿男がうだうだ悩んで、ナナセとの問題が片付いたにも関わらず連絡くれないんだと納得したけどね」
 「悪りぃ……」
 「あたしに謝んないでよ……謝るなら、『このコ』でしょ」
 「ん……お前、文句を言いに来たのか? 」
 「言っとくけど、今日、ここに来るって決めたのはあたしじゃないわよ」
 「え、一体誰が? 」
 「『あのコ』よ。まぁ、かなり緊張してしどろもどろになりながら、あんたの世話係に連絡して、今日ここで何かやってるって聞いて」 
 アユミのその言葉を聞いて、涼は自分の頬がかぁっと熱くなるのを感じた。
 「けど……『私、上手に話せないから』って、あたしにこれを渡してくれるように頼んだのよねぇ」  
 アユミは「肝心な時に臆病だけど、そんな『あのコ』も可愛いのよねぇ」とぼやきながら、薄桃色の封筒を取り出し、涼の目の前に置いた。だが、涼がそれを取ろうと、手を伸ばした瞬間、アユミはぱっと取り上げた。
 「何すんだよ」
 「……話はまだ終わってないじゃない。ってか、アンタは今回の件で『このコ』のこと、嫌いになったわけ? 」
 「んなワケがねーだろ」
 「ただ、『自分にあの女の面影がやっぱりあって、それで五月に嫌なことを思い出させて傷つけたくない』とか『自分と関わると不幸になるから』って考えてんでしょ」
 「…………」  
 アユミの言葉に、涼はただ黙り込んでいた。  

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