第四章

突き放す優しさ 14

 幸せの絶頂から一気に不幸のどん底へ突き落とされたような感覚だった。涼は七世との問題もようやく解決した。これからやっとあゆみと正式に付き合えると思っていたというのに、一気にそれに赤信号が点いた。
 「……関係ねーじゃん、んなの俺には」  
 強がってそう呟いてはみるものの、それを完全には否定しきれない自分が苛立たしい。どんなに否定しようと、自分の身体の中には幼いあゆみを傷つけた女の身体から生まれた命が脈々と息づいているのは事実なのだ。つまり、涼がいくら気をつけようとも、ふと何気なくした仕草の中にあの女の面影が現れ、あゆみを壊してしまうかもしれない。
 (五月から、離れた方が……いいのか? )  
 流れていく車窓の景色をぼんやりと眺めながら、涼は心の中で己にそう問いかける。
 (離れた方が良くねー? 五月のこと、傷つけたくねーだろ? )
 (いいや、離れるなよ。五月のこと、諦められるのかよ? だいたい、会ったこともねーよーな生みの母親のことを今更持ち出されても、俺には責任ねーだろ? )  
 涼の心の中で二人の自分があーでもないこーでもないと言い争っている。多分、どちらもあゆみのことを好きだからこそ、それぞれの主張を繰り返しているのだと理解っている。だからこそ、結論を出せない。
 「……なぁ、涼」  
 黙り込んだままの孫を珍しく心配する気にでもなったのか、不意に湧がそう声をかけてきた。
 「……何だよ? 」
 「話は変わるが……治彦の奴がお前に頼みたい仕事があるらしい」
 「バカ親父が俺に仕事を? どうせ、くっだらねー内容だろ」
 「……しかし、今のお前には良い気分転換になるやもしれんな」
 「……んな余裕なんかねーよ」
 「余裕がなくとも、余裕のあるように振る舞えぬとは……まだまだお前も子どもよの」
 「うるせーよ」  
 湧が自分を子ども扱いすることに、涼は無性に腹が立った。だが、それが単なる八つ当たりに近いのだということも理解っている。だから、それ以上の反論をせずに、涼は再び黙り込んだ。
 「おーおー、まだまだお前も……」
 湧がにたりと口元を綻ばせながら更に孫を問い詰めようとしたのを、桂が静かにそう窘めた。
 「……旦那様、涼様へのお戯れもほどほどになさいませ」
 「そうは言うがな、桂……男女関係での悩みは仕事で解消しろと教えてくれたのは、お前であったような気がするが? 」
 「それは旦那様が奥様や他の方々とのことで頭を悩まされ、業務が停滞したからでございます」
 「ふふっ、そんなこともあったかのぅ。若気の至りよ、それもな」
 「若気の至りでございましょうか? 引退されてもなお、そちらの方は相変わらずお盛んではございませんか? 」
 「仕方あるまい。男は灰になるまで男だと言うであろう」
 「それでも程度というものがございましょう」  
 桂がどこか呆れたような口調でそう呟くと、湧がふっと苦笑いを浮かべた。
 「まぁ、そろそろ少しは自重せねばとは思うがな」
 「旦那様、そう仰るだけで済むのなら簡単ではございますが……」
 「ああ、理解っておる、理解っておる。千代子の機嫌をこれ以上損ねてはならんということであろう」
 「ああ、お理解りになられていらっしゃるなら、何も申し上げることはありません……それより、涼様」  
 不意に桂から呼ばれ、涼はふっと顔を上げた。
 「一体、何? 」
 「この老いぼれの言葉に少しだけ耳を傾けては下さいませんでしょうか? 」
 「…………」  
 涼の沈黙を肯定ととったのだろう、桂は相変わらず穏やかな口調でこう続けた。
 「この度のことはそう楽観視できるものではないでしょうが、涼様のように何も始まらぬうちからあれこれとお考えになり、立ち止まっていては何も生まれぬと私は思うのです」
 「……桂さん、でも――」
 「失礼ながら……この度のことでそれほど弱腰になられる程度の想いでしたら、すっぱりと断ち切られた方が良いと思いますがね」  
 桂は相変わらず穏やかな口調で、しかしきっぱりとそう言い放った。そして、最後にまるで月光のような柔らかな微笑でこう告げた。
 「どうか賢明なご判断をなさいますように」

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