第四章

突き放す優しさ 13

 「……この馬鹿孫」  
 車の後部座席に乗り込んだ途端、湧はそう言って軽く涼の頭をはたいた。
 「…………」
 「お前の顔を見たら、千代子が確実に心配するだろう……あれはお前を本当に可愛がっておるからな」  
 孫の怪我の心配よりも、それを見て心を痛めるであろう妻の心配をする湧に涼は思わず微苦笑を浮かべた。
 「理解ってる」
 「この馬鹿者め」  
 湧がそう呟くと、桂が助手席から穏やかな声でこう涼に言った。
 「涼様……旦那様も心配なさっておられるのですよ。ただ、貴方様と同じく、素直に物を仰れないご気性なのです」
 「それも理解ってる」  
 涼がさらりとそう答えると、湧は一瞬ばつの悪そうな表情を浮かべた後、備え付けの小型冷蔵庫から氷袋を取り出し、それを桂が差し出した濡れタオルでぐるぐる巻きにした後、ぐいっと孫へと差し出した。照れ隠しなのか、そっぽを向いた祖父の横顔に、涼は苦笑いを浮かべた。
 「ともかくだ……しばらく冷やしておけ。さすがのワシも腫れぼったいお前の顔など、そう見たくないからな」
 「ありがと」  
 涼は素直にそれを受け取り、まだ熱を帯びたままの頬へと押し当てた。火照った肌にこの冷たさは酷く心地良い。
 「……なぁ、涼」
 「ん?」
 「……平嶋の小娘とはちゃんと話したのか?」
 「ああ……ちゃんとケリはつけたさ」
 「なるほどな。道理でお前が部屋を出た後、号泣するわけか……」
 「ん」  
 自分の言葉が、行動が七世を傷つけることは最初から理解っていたことだったし、覚悟の上だ。しかし、それでも心が幽かに痛む。涼は窓の外の景色を眺めながら、口元にうっすらと苦笑いを浮かべた。そんな孫の様子に、湧が静かに問うた。
 「……痛むか?」
 「まぁ、多少はな」
 「お前ですら痛いのだから……あの小娘は尚更痛かろうな」  
 湧の口調は静かであったが、その言葉はざくりと鋭い刃物のように涼の胸に突き刺さる。
 「…………」  
 湧の言葉に対し、涼は沈黙を守った。別れを告げた自分よりも、告げられた七世の傷の方が深いのはよく理解っている。しかし、それでも、七世ではなくあゆみが好きだという自分の気持ちを偽ることなどできなかった。仮にそれを偽って七世を喜ばせたとしても、いつか真実が明らかになった時、尚更彼女を傷つけてしまう。それは優しさではなく、ただの偽善にしかならない。だからこそ、残酷だと知りながらも、真実を告げた。
 「知らせぬのは偽善、知らせるのが優しさかもしれぬな……それゆえ、辛いだろうが、お前には伝えねばならぬことがある」
 「ん?」
 「五月嬢のことだ……お前にはちゃんと話しておかねばならないことがある」
 「何だよ?」
 「……五月嬢とその父上の経緯は知っておるな」
 「ん……一応、五月の姉さんともう一人の方から話は聴いた」
 「……父親と一緒に虐待してた女のことは?」
 「それは全然」
 「だろうな……おそらく、五月嬢の姉上方もその辺りのことはご存知ないのであろうな」  
 湧の含みのある物言いに、涼の脳裏にはある、全く考えたくもない仮定が組み上がる。だが、その仮定を口にして、湧がそれを肯定するのが怖い。だからこそ、涼はその仮定を口にすることを躊躇った。
 「お前のことだ……ある程度は話の内容の察しがつくであろう」  
 涼の躊躇いに気付いたのか、湧はそこで話をやめた。しかし、それは涼の脳裏にで組み上がった仮定が真実だと、暗に肯定していた。
 「……確か、なのか」  
 涼は喘ぐように、その言葉を吐き出した。
 「ああ……確かだ。先日、五月嬢の父上が我が家に来たであろう。その時にな」
 「んなの……俺には関係ねーだろ」
 「左様。ワシや千代子、治彦や景子さんも同じ意見だ。しかし、父上はそうは思っておられぬようでな。お前と一緒にいれば、いつかお前にあの女の面影を見てーー」
 「五月が……壊れ、ちまう? 」  
 フラッシュバックという言葉がチカチカと涼の脳裏で点滅する。その後の湧の言葉は頭に入らなかった。いや、聞く余裕がなかった。

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