第四章

突き放す優しさ 12

 涼が病室を出ると、六郎氏がすっかり打ちひしがれた様子で廊下のイスに座り込んでいるのが見えた。その肩が小さく震えている、まさか、泣いてでもいるのだろうか。
 「……何があった?」  
 すっと影のように寄り添ってくる峰谷に、涼は低い声でそう問うた。すると、峰谷がぼそぼそと耳打ちした。
 「涼様が病室に入られた後にすぐ電話がありまして……党幹部を解任されたようです」
 「今回の一件で?」
 「ええ……どうやら、平嶋氏を党内部でも良くは思っていないグルーブがいたようで、今回のことをチャンスとばかりに暴露され、幹部として相応しくないということでーー」
 「哀れ、だな」
 「しかも、その上、七世嬢の独白を聴いて、一気に罪悪感が芽生えたんでしょう」  
 家族すら時に犠牲にして、今まで築き上げた地位。それを奪われた後に耳にする、犠牲にした娘の独白。権力争いを繰り広げる中で段々と削られていった六郎氏の良心。僅かに残っていたそれが、七世の言葉によって一気に胸に込み上げたのかもしれない。
 「……まぁ、こっからは俺らが関わるべき問題じゃねーだろうな」
 「ですね……帰りましょうか」  
 涼と峰谷がそんな会話をしていると、不意に六郎氏がふっと顔を上げ、話しかけてきた。
 「……涼君」
 「何でしょう?」
 「……一発だけ、殴らせてくれないか?」
 「な、何を仰るのです、平嶋様っ」  
 六郎氏の申し出に峰谷がさっと表情を硬くし、すっと涼と氏の間に入って壁となろうとした。
 「峰谷、いいから」  
 涼は壁となろうとした峰谷を手で制して、そう声を掛けた。六郎氏の気持ちは何となく理解っていた。そして、それも当然だと。
 「……どうぞ、ご自由に。ただし、一発だけですよ」  
 涼は抵抗する様子も見せず、六郎氏の前に立った。
 「涼様っ」  
 次の瞬間、鈍い音とともに涼の身体は病院の壁に叩き付けられた。口の中に鉄の味がじわじわと広がるのを感じながら、涼は口元を拭った。
 「……二度と、私と娘の前に現れないでくれ」
 「言われずとも」  
 峰谷が酷くおろおろとした様子で懐からハンカチを取りだし、涼の口元を拭う。白いハンカチがあっという間に、紅に染まっていく。
 「……貴方様は馬鹿ですか」
 「ん……そーかもな」  
 峰谷の叱責する声が酷く潤んでいることに、涼は少しだけ罪悪感を抱いていた。しかし、多分、ここで六郎氏に殴られなければ、七世に対する罪の意識は消えないような気がしたのだ。だからこそ、素直に殴られた。きっと、峰谷も涼のそんな気持ちを薄々は理解っているはずだ。
 「……立てますか?」  
 壁に背を預けたままの状態の涼に峰谷が不安げに声を掛ける。涼はすっと手を伸ばし、峰谷に「手を貸せ」と沈黙の指示をした。
 「……本当に貴方様は馬鹿です」  
 そんな憎まれ口を叩きながらも、峰谷は静かに手を伸ばす。
 「……おお、随分と派手にやられたのぅ」  
 いつから居たのか、湧と桂がそんな二人の側へゆっくりと近づいてきた。六郎氏はさすがに不味いと思ったのか、慌てて背を向けた。すると、湧はそんな六郎の背中に向けて、静かな口調でこう言った。
 「心配せんでも、別に咎めはせんよ……ただ、今回の件はこれで破談ということにしてもらおうか?」
 「ええ……もう、そちらにこだわる理由がなくなってしまいましたから」  
 六郎氏は背を向けたまま、湧にそう答えた。その声はどこか悲しげで、痛々しかった。湧はそんな六郎氏の態度に苦笑いを浮かべた後、低い声でこう告げた。
 「……そんなに落ち込まんでも、アンタのような有能な人間にはまだ幾度も好機が到来するさ。『明けぬ夜はない』というのが、アンタの祖父さんの口癖だった」
 「……祖父をご存知で?」
 「ああ……若い頃、ちと一緒に馬鹿をやった仲よ。ただ、あやつが政に深く携わるようになってからは交流も途絶えたがの」
 「そうでしたか……」
 「まぁ……あやつほどの立場ともなれば、いらぬ柵がいくつも身体に纏わりついておったろうから、致し方あるまいがな」
 「…………」
 「まぁ、昔話はほどほどにしておこうかの。さて、涼、そろそろ帰らねばな」

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