第三章

廻りだした歯車 9

 「ち、ちよ……千代子っ、お前はっ! 」  
 血相を変えた祖父、湧が座敷に飛び込んできたのは、涼と千代子が茶菓子をちょうど食べ終えて、あれこれと世間話をしていた時だった。
 「あら、旦那様。お帰りなさいまし」  血相を変えて部屋に飛び込んできた夫を千代子はにこやかに三つ指をついて出迎えた。
 「ああ、ただいま……じゃないっ! お前。何ということをっ」  
 ああ、件の業物の件だろうなぁと涼がふっと苦笑いを浮かべた。だが、湧は涼のそんな予想の斜め上をかっ飛び、いきなり心配そうに千代子の手を取り、小さな傷さえ見逃すまいと真剣な表情で、彼女の怪我の有無を確かめ始めた。
 「あら、旦那様。私、怪我なんかしておりませんが」
 「今、確かめたら目釘が折れていた。お前が目釘を折るとはただごとではなかろうて」
 「あら、それはそれは……きっと、心乱れていたせいでしょうに。いけませんわね、武を嗜む者が心乱れて刀を持っては。私、駄目な女ですわ。旦那様が余所の方の所に行かれたというだけで、心乱れてしまって」  
 千代子がわざとらしく泣き崩れた。
 「ち、千代子っ、泣くな。泣くんじゃない」  
 傍で見ている涼から見て、千代子はあからさまに嘘泣きだと判るというのに、湧は完全に狼狽えている。
 (何だ、この夫婦は)
 「……涼様、お庭に参りましょう。ここに居ては、あてられてしまいますよ」  
 呆気にとられている涼に桂が困ったような微笑を浮かべ、庭へと続く障子を開けた。
 「……それでは、しばらく涼様と庭を散策して参りますゆえ」  
 桂はそう断ると、自然な動きで涼の腕を取り、座敷を出た。
 「……いつものことでございます」  
 呆気にとられたままの若い主に対して、桂は穏やかに微笑みながら、そう告げた。
 「……いつもの、ことね。あれじゃ、毎回の手入れが大変じゃねーの」
 「いえ、あれでも大分穏やかになったものでございます……以前ならば、長刀をお持ちになって相手方の所まで乗り込んで行かれてましたから」
 「長刀って……ったく、それでも余所の女のとこへ行こうって言う、あの祖父さんの心境がわかんねーな」
 「そうですね……まぁ、大旦那様のお言葉を借りると、『和食だけでは食べ飽きる。たまには洋食と中華など、分野の違う料理を食べたがるのが男だ』ということでございます」
 「でも……あれこれ食べても、やっぱ最後に食べたくなって、ほっとするのが『和食』ってことか。けど、それって勝手な言い分だよな、実際」
 「ええ……ですから、大旦那様は大奥様の多少のワガママは大目に見られるのですよ」
 「……ああ、なるほど、ね」
 「ただ、それは大旦那様に限られた話ではないのでございます」
 「はぁ? 」
 「私がまだ若かった時分、書庫整理のために鳴沢家のこれまでの記録を拝見致しました折、これまでの御当主は皆様、奥様に程度の違いこそあれ、目に余るほどの好待遇をなさっていたとの記述がございましたよ」
 「へぇ」
 「付け加えますと……皆様、一様に女性がお好きだったようです」
 (女房に甘いのも、女好きも血筋かよ、おい)  
 桂の言葉に涼は思わずぷっと吹きだした。元々、生物のオスというものには自分の遺伝子を多くのメスに残したいという欲求が本能的に組み込まれているのだという。その観点から見れば、鳴沢家代々の女好きの血筋は仕方がないことかもしれないが、さすがにそれを「血筋だから」と正当化する気は毛頭ない。
 「……よくそれでお家騒動がなかったな」
 「なかったと思われますか? 」  
 ふっと桂の声が陰りを帯びたことに、涼は肩をすくめて首を横に振り、こう続けた。
 「家を滅ぼすようなお家騒動が、ってことだよ……だからこそ、今もこうやって鳴沢(うち)が存続してんだろ? 」
 「確かにそうでございます。ただ、戦後間もない頃は瓦解寸前でございました。それを立て直したのが、涼様のお祖父様であられる、大旦那様で……」  
 桂は遠い日の記憶にふっと懐かしげに目を細めた。だが、すぐに我に返った。
 「はっ、申し訳ありません。つい、年寄りの悪い癖で昔を懐かしんでしまいました」
 「いや、別にいいんじゃね。 それより、俺、そろそろ帰るわ。俺の峰谷も心配するしな」  
 涼の言葉に桂はふっと微笑んだ。その笑顔は執事ではなく、孫を思う祖父のものだった。

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