第三章

廻りだした歯車 8

 あゆみを家まで送り届けた後、涼はその足で祖父の家へと向かった。一応、『風月堂』で包んで貰った、『陰陽兎』が手土産だ。
 「あら、涼。いらっしゃいな」
 「え、ああ……珍しいですね、お祖母様が直接お出迎え下さるなんて」  
 穏やかな笑みで涼を出迎えてくれたのは桂ではなく、祖母の千代子だった。すると、千代子はころころと笑い声を立てた。
 「あら、私ではご不満でしたの? 」
 「いえ……そんなことはありません。その、お祖父様は? 」  
 すると、千代子の瞳がすうっと細くなり、おっとりした表情にほんの毛筋ほどの剣呑な感情が宿った。ああ、地雷を踏んだと涼は悟った。だが、すぐにその剣呑な感情を掻き消すように、千代子はにっこりと微笑んだ。
 「おそらく……小唄のお師匠さんのところでございましょう。先程、峰谷と、何やらこそこそとお出かけになられたから」  
 千代子の表情と声は非常に穏やかではあったが、彼女がそのことで気を害しているのは火を見るよりも明らかな事実であった。
 (祖父さん……やっぱ、アンタは親父の親父なんだな)  
 老いてもなお盛んな祖父への想いに涼は苦笑いを浮かべると、そっと千代子に菓子折を差し出した。
 「これ……先日、頂いて美味しかった『陰陽兎』です。お祖母様にお土産と、思いまして」
 「あら、嬉しいわ……なら、早速お茶を淹れましょう。涼、先に私の部屋に行って、待っていて下さる? 」  
 千代子は菓子折にふっと瞳を細め、嬉しそうにそう言った。
 「え? お祖母様のお部屋に? いいですよ、いつもの座敷で」  
 千代子の部屋は彼女が愛してやまない細々とした和風の雑貨が所狭しと飾られ、白檀の香がほんのりと焚かれている。可愛いものが好きな女の子なら大喜びしそうだが、涼にとっては微妙に居心地の悪い場所だ。
 「あらあら……遠慮なさらないで。それに、居間は見苦しくて、見せられませんの」
 「ああ、それなら、お言葉に甘えます」  
 千代子はいそいそと菓子折を手に奥に消えていった。その背中を見送った後、涼は障子の隙間から居間の様子を伺い、絶句した。畳の上では祖父ご自慢の業物が抜き身で転がり、その傍らには既に見事真っ二つになった巻藁がある。
 (ああ、自棄になって、祖父さんのコレクションで試し切りしたのか……ってか、いい腕してんな、祖母さん)  
 巻藁の切り口を見て、涼は思わず感心した。武家の出だったという千代子は今でも早朝、長刀での鍛錬を欠かさず行っており、相当な腕前の持ち主なのだという。だが、まさか剣術においても長けているとは、涼は千代子だけは敵に回したくないと本気で思った。
 「……あらあら、見てしまいましたのね」  
 不意に背後から千代子の笑いを押し殺したような声が聞こえ、涼はびくりと背筋を震わせた。
 「い、いや、その、見るつもりは……いえ、すみませんでした」  
 ここは下手な言い訳するよりも素直に謝る方が得策だろうと考え、涼は素直に謝った。すると、千代子がころころと笑った。
 「いいのよ、別に。それに涼が謝ることじゃございませんわ……むしろ、それは旦那様が悪いのですから」
 「は、はぁ」
 「さぁ、参りましょうか」  
 千代子は黒塗りの盆に茶筒と急須、そして湯飲みと『陰陽兎』が二匹ずつ並んだ菓子皿二つを載せ、いそいそと涼を誘った。
 「ねぇ、涼」
 「は、はい、何でしょう 」
 「……貴方には苦労をさせますわね」
 「え? 」
 「旦那様がああだから、治彦も同じように戯れが過ぎて、貴方にはいらぬ心配と迷惑ばかりをかけて」
 「何を……だいたい、お祖母様や義母(かあ)さんだって、苦労なさっているでしょう。俺だけがあれこれ苦労や迷惑をしているわけじゃないですから」
 「いいえ……私や景子さんはある意味で覚悟して、旦那様や治彦のそばにいるのだから。それで苦悩しても、自分で選んだ伴侶(おっと)と人生(せいかつ)の結果ですわ。それにね、旦那様も治彦も、どこでどうお戯れになられても、必ず私や景子さんの元へ戻って来てくれますから、幸せなんですわ」  
 千代子は穏やかながら、そうきっぱりと言い放った。それは湧という男を半世紀にもわたり支え続けてきたという、浮気されてもなお、夫を己の元へ留め続けられたという、妻としての誇りなのだろうと、涼は静かに微笑んだ。

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