第三章

廻りだした歯車 19

 あれから一ヶ月ほど経ち、あゆみと遊園地に行くと約束していた日はあっさり過ぎていってしまった。七世との見合い話は何とか理由をつけて、ずるずると返事を保留したままである。そんな中、涼は何度かあゆみに電話やメールを送ったのだが、どうやら拒否設定にされたらしく、全く連絡がつかなくなった。週末にあゆみの実家に行っても、彼女はもう自分には会ってはくれないだろうと何となく分かっている。この失恋の痛手は大きい。しかし、バンドの練習や小遣い稼ぎの仕事はしっかりこなさねばならない。いや、そのおかげで何とか最低限の自分を見失わずに済んでいるのだと、涼は理解っていた。
 「……涼様、お食事は? 」  
 週一のバンド練習から帰って来た涼を峰谷は普段の穏やかな口調で出迎えた。峰谷の背後にあるキッチンからは、あゆみの家で食べて以来大好物になった、肉じゃがの香りがふんわりと漂っていた。
 「いい」
 「駄目です、ちゃんと召し上がって下さいっ」  
 最近、涼がまともに食事をしていないことに心を痛めているらしい峰谷は渋い表情で両手を広げ、主人の行く手を阻んだ。
 「食欲ねーんだよ」
 「なくても召し上がらないと駄目です」
 「……ったく」  
 峰谷に逆らう気力もなかったため、涼は素直に食卓についた。ふわりと鼻先で漂う肉じゃがの香りに涼の胸はちくちくと痛み続ける。
 「鳴沢君」  
 自分の安請け合いが招いた失恋。もうこれ以上関わってはいけないと理解っているのに、否応にもあゆみの無邪気な声や姿が色鮮やかに脳裏に蘇る。こりゃ、我ながら相当重症だなと涼は微苦笑を口元に刻み、黙々と肉じゃがを頬張った。
 「……飲みますか? 」  
 食後、峰谷がウィスキーとグラスを持ってきた。普段は涼が飲んでいると「未成年なんですから」とあまりいい顔はしないのだが、どうやら精神的にダメージを喰らっている主へのせめてもの気遣いらしい。
 「……いい、悪酔いするだけだし」
 「そうですか……」
 「悪りぃ、お前にまで気を遣わせちまって」
 「いえ……元はと言えば、私どもが八葉が五月様に接触する可能性を想定できなかったのがいけなかったのです。お許し下さい」
 「お前らのせいじゃねーよ……悪いのは、ちゃんと五月に説明しなかった、『好きだから付き合おう』ってちゃんとはっきり言えねーでずるずる逢ってた、俺だよ」
 「涼様」
 「もう……いい。気にすんな、すぐ忘れるさ」  
 涼がそう言った途端、不意に視界がじわりと滲んだ。ああ、肉じゃがの湯気のせいだと思ったものの、冷たい何かがぽたりぽたりと頬を伝っていく感触に涼は自らを嘲った。失恋で泣くなんて情けないと頭では理解っている。しかし、涙は止まらない。せめてものプライドで泣いていることに気付かれたくなくて、咄嗟に顔を伏せたが、震えている肩で峰谷にはバレているだろう。
 「その様子だと……忘れるのは絶対無理だな」
 「ですよねぇ」
 「ってか、水臭いよな。何で俺らに相談しねーわけ? 」
 「ああ、確かにそうですよね。失恋の乗り越え方に関しては、本宮さんはプロですもんね」
 「そうそう、失恋のエキスパートであるこの俺が……って、長屋、お前、バカにしてんのかぁ? 」
 「いや、長屋は事実を言ってるだけだから、お前が失恋王なのは周知の事実だよな」
 「誰が失恋王だ、誰がっ? 」
 「だから、本宮さんに決まってるじゃないですか。昨日、失恋記録更新したじゃないですかぁ」
 「くぅぅぅ……世の女たちがまだ俺の魅力に気付いてねーだけなんだよぉぉ」  
 ぽんぽんと続くそんな会話と不意に頭に手を置かれた感覚に涼が雑に腕で涙を拭って顔を上げると、いつから部屋にいたのか、佐山を始めとしたROAのメンバーがどことなく生温い視線を向けつつ、側に立っていた。
 「お……お前ら」
 「いや、何かお前の様子がおかしいなぁと思ってたんだ、ここ一ヶ月」
 「そーそー、練習で歌ってても『気持ちはココにありませーん』って雰囲気だったし」
 「それに、五月さんとの話を全然しなくなってたし……で、何が原因なんですか? 」
 「……言いたくねー」  
 涼がそう言い放つと、いきなり佐山から羽交い締めにされた。本宮は先程皆から散々失恋王扱いされたせいか、半ばヤケになった口調で涼にこう宣言した。
 「さぁ、涼。この失恋マスターに全て語れ」

<< Back   Next >>