第三章

廻りだした歯車 18

 「……あのくらいの戯れ言で動揺するとは、やはりお前はまだまだだの」  
 見合いの席からの帰り、湧がぼそりとそう言った。その言葉がまるで耳に入っていないかのように、涼がぼんやりと車窓を眺めていると、ぽんと頭の上に手を置かれた。ちらりと視線を横に向けると、湧が珍しく目を細めて、微笑んでいた。
 「悪かったな、まだまだで」  
 涼がそう悪態をつくと、湧は静かに首を横に振った。
 「まぁ、良いこともあったがの」
 「はぁ? 良いこと? 」
 「……お前にも年相応に可愛らしいところがあると分かったからな。ただ、五月嬢のことだけは気がかりだがな」
 「ん……その、一応保護者には事情を説明してんだけどな。本人に言うにはちょっと、な」  
 恋人と言うにはまだ早いが、友人よりも少しだけ進んだ関係。ただ、それはちょっとした拍子に脆く壊れてしまいそうなほど、頼りない関係でもある。涼がぼんやりとそんなことを考えていると、不意に携帯が鳴り出した。サブディスプレイに表示されている番号には見覚えはなかったが、涼は湧に目配せをすると電話に出た。
 「も、もしもし? 」
 「……こんにちは、鳴沢君」  
 その声には聞き覚えがあった。当てにならない、七世の恋人、八葉だ。ただ、この前会った時のおどおどした様子とは違い、どことなく勝ち誇った口調だった。
 「どうして俺の番号を? 」
 「月曜日だったかな、彼女に聞いたんだよ」
 「彼女? ナナセか? 」
 「いや、平嶋さんじゃないよ」  
 八葉は七世のことを名前ではなく、名字で呼んだ。そして、更に勝ち誇った口調で更にこう続けた。
 「……五月さんだよ、君が心を弄んだ。可哀想に、今回のお見合いのことを教えたら酷く泣いてたよ。君のこと、本当に好きだったんだね、彼女」
 「……っ、てめぇ」  
 涼は思わず声を荒げた。湧が何事かと顔色を窺ってきたが、そんなことを気にしている余裕もなかった。
 「おや、君が怒ることなんて一つもないだろ。君は結婚前提で七世と見合いをした、それは事実だろ? 」
 「違うっ! 」  
 涼が更に声を荒げてそう言おうとした瞬間、不意に湧が彼の手から携帯を取り上げると電話を切った。
 「な、何すんだよっ」
 「愚か者、挑発に乗るな」  
 湧はそう重々しい口調で言うと、携帯をぽんと涼の膝上に投げた。
 「八葉という男……当てにならんばかりか、随分と姑息な手を使う小物だな。そんな男の挑発に乗るより先に、お前にはなすべきことがあろう」
 「はん? 」  
 涼はじろりと湧を睨み付けた。だが、湧は逆にそんな孫を睨み付けた。氷のように冷たい湧の眼差しに見詰められた途端、怒りで昂ぶっていた涼の心はざばりと冷水をかけられたように一気に鎮まった。孫が落ち着いたのを見計らい、湧は更にこう続けた。
 「……お前がまずなすべきは、五月嬢へのフォローだろう。さっさと電話でもメールでもして、説明して理解って貰うのが先だ」
 「……わーったよ」  
 涼は着信履歴からあゆみの携帯番号を探し出し、電話をかけた。電話はすぐに繋がった。
 「も、もしもし? その、な、鳴沢だけど」
 「…………」  
 あゆみからの返事はなかった。ただ、電話の向こうにあゆみがいるのだけは、受話器越しに聞こえる吐息で分かった。涼は何とか自分を落ち着かせながら、こう話を切り出した。
 「……あのな、実は話があって――」
 「もう、いいんです」  涼が事情を話そうとするのを遮って、あゆみははっきりとした口調でそう言った。
 「もう、いい……って」
 「大分、落ち着きました……だいたい、まだお付き合いもしていないのに、週末にお会いしたりすることに浮かれてた私がバカだったんです。だから、もういいんです」
 「いや、だから……」
 「電話もメールも今日で終わりにしますね」
 「え? 」
 「落ち着いたけど、まだ鳴沢君のこと、好きな気持ちが残ってるから……心が揺れちゃうから、ごめんなさい。今までありがとうございました。それじゃ――」
 「さ、五月、あのな……」  
 涼が何か言おうと言葉を必死で探している間に、あゆみは静かに電話を切ってしまった。

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