第二章

絡まっていく糸 5

 「……待つって、どういうこと? 」  
 浅子の「待って欲しい」という言葉に対して、涼が沈黙していることに業を煮やし、七世が噛みついた。浅子は更にこう続けた。
 「正直、まだあのコは七世さんと鳴沢君が付き合ってるって思ってるから……今、鳴沢君に『好きだ』なんて言われても、素直にその言葉だけを受け止められないと思うのよ。確実に悪い方に悪い方に考えると思うのよ。だから、待って欲しいって言うのは、告白までにまだ冷却期間を置いて欲しいってことなの」
 「あのぅ、失礼ですけど……それってあまりに過保護じゃないんですか? そりゃ、多少戸惑うかもしれませんけど、お姉さんたちがそこまで考えて行動するなんて、普通にありえないでしょ。妹ちゃん、駄目になっちゃいますよ、それじゃ」
 「そうね……過保護かもしれないわね。あのコをもう傷つけたくないって気持ちが、無意識に働いちゃうせいかもね」
 「それ……アユミと関係ある話か? 」  
 涼が七世と浅子の間にそう割って入った。すると、浅子はこくりと頷いた。だが、それ以上はその話題に触れたくなさそうな、そんな哀しげな表情を浮かべた。
 「……だから、それが妹ちゃんを――」
 「ナナセ」  
 説明不足だと言わんばかりに浅子に更に噛みつこうとした七世を涼は静かに制止した。
 「何よ、リョウ」  
 七世が「アンタのために怒ってんでしょ」と言わんばかりに睨み付けてくるのを涼しい顔で流しながら、涼は更にこう続けた。
 「『カイリセイドウイツセイショウウガイ』ってのはPTSD(心理的外傷)から逃れようとして生まれるんだってさ」
 「何よ、藪から棒に。ってか、カイリ何とか、って一体何よっ? だいたい、それとサツキちゃんとの話とどう繋がんのよ」  
 七世のその問いかけに答えたのは、浅子だった。浅子は淡々とした口調でこう続けた。
 「『解離同一性障害』……まぁ、俗に言う多重人格症のことも指すわ」
 「その、カイリ何とかってのがどんなものかは理解ったわ。でも、それと、サツキちゃんとどういう関係があるわけ? 」
 「今から約10年前、この街にはね、父親だった男とその恋人(おんな)に虐待されてた幼い女の子がいたの……それが、あゆみよ」  
 浅子のその言葉に七世の顔色はさっと変わった。だが、もう浅子の独白は止まらない。
 「…………」
 「父と離婚した母と姉(あたし)たちが一緒に出て行く時、あゆみも一緒に連れて行くつもりだった。でも、父が『あゆみまで連れて行ったら、死んでやる』って脅したの。だから、あのコだけ、家に残したの……『すぐにまた会いに、迎えに行くから』って約束して」  
 いつの間にか、浅子のコーヒーカップを掴んでいた手がカタカタと微かに震えていた。
 「でも、その約束は守れなかった。次に会った時には……あのコは昼下がりの病院のベッドの上でチューブに繋がれてたわ。目を覚ますかどうかももう分からない、ものすごく酷い状態だって言われて。夢なら醒めて欲しいって、初めて思ったわ」
 「……ご、ごめんなさい」  
 七世は浅子のそんな独白に思わず謝罪の言葉を呟いた。だが、浅子の耳にはもうその声は届いていないようだった。
 「あのコの身体にはいっぱいいっぱい青痣があった。まともに食事とかさせて貰ってなくて、見るのも辛いくらい、骨と皮だけになってた」  
 その頃を思い出し、どうやら気持ちが昂ぶったのだろう、浅子の頬にはいつの間にか幾筋かの涙が伝っていた。涼は酷く辛そうな表情を浮かべ、浅子の肩に手を置いた。
 「……浅子さん、もういいから」
 「いいえ、聞いて欲しいの。目を覚ましても、もう大丈夫だって何度抱きしめても、あのコはしばらくまるで人形みたいだった。時々、わけの分からないことを呟きながら、自分を傷つけてた……別人格のあーちゃんが現れて、何とか元のあのコに戻ったけど、やっぱりあの時、父の脅しに屈せず、一緒に連れて行ってればあのコはあんな風にならずに済んだのって、思っちゃうのよ。だから、多分過剰にあのコを守りたいって思っちゃうのよ、きっと。あのコには絶対に言えないけどね」  
 涼はすっと浅子に備え付けのテーブルナプキンを差し出した。すると、浅子は自分が泣いていたことにようかく気づいたのか、慌てて涙を拭き始めた。
 「……事情はよく分かりました。お姉さん、辛いこと、聞いてしまって、ごめんなさい」  
 七世は真顔でぺこりと頭を下げた。すると、浅子は静かに首を横に振り、ふっと微笑んだ。
 「謝らないで、七世さん。ただ、あたしが話したかっただけ。あなたが悪いんじゃないわ」

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