第二章

絡まっていく糸 4

 「えっと、あの、氷です」  
 あゆみはやっぱり七世をちらちらと気にしながら、小さな声でそう言うと、涼の前に氷の入ったビニール袋を置いた。
 「あ、ありがと」  
 涼はそう言って、先程から熱を持っている右手にそれを当てた。だが、あゆみは涼のそんな言葉すら待ってはくれず、そそくさと姉たちの影に隠れてしまった。
 (これじゃまるで……俺が五月をいじめてるみてーじゃねーか)  
 涼がふっと溜息をつくと、浅子が「仕方ないわねぇ」と言わんばかりの微苦笑を浮かべ、こう彼に切り出した。
 「……で、そのまず、七世さんとか言ったっけ、このコは君の彼女じゃないの? 」
 「違います、あたしとリョウはただのセ……まぁ、カレカノってわけじゃないです」  
 七世が慌ててそのことについて弁解しようとしたものの、さすがにあゆみの前で直接的な表現を使うわけにもいかないと判断したのか、非常に曖昧な表現を使った。だが、浅子は容赦がなかった。
 「つまり、その……鳴沢君と七世さんは俗に 言うセフレなわけね」  
 医者という職業に就いているせいなのか、浅子は顔色も変えずに「セフレ」という表現をごくごく普通に口にした。だが、理亜と沙穂は真っ赤になって俯いた。どうやら、この二人は浅子に比べて純真らしい。そして、もう一人、この二人以上に純真無垢な存在がいた。あゆみである。あゆみは浅子の発した「セフレ」という言葉すら知らないらしく、姉たちの影できょとんと首をかしげていた。
 「せふれ? 」  
 何も知らないということは恐ろしいもので、あゆみは可愛らしい桃色の唇でそう呟いた。その瞬間、涼の中で一瞬、欲情が溢れかけた。
 「あゆみ、それは軽々しく口にしてはいけない言葉っす」
 「そうそう、そうよぉ。あのねぇ、そんな言葉を口にしたら、速攻でお嫁の貰い手がなくなるんだからぁ」
 (いや、俺ならいつでも大歓迎。ってか、俺、何で言葉だけでこんなに興奮してんだ)  
 半ば暴走気味の涼のそんな心の叫びに勘づいたのか、理亜と沙穂が慌ててそう窘めた。
 「うみゅ。口にしちゃダメなんだね、分かった。あと、お嫁の貰い手なくなるって……私、お姉ちゃんたちを置いてお嫁になんか行かないから心配いらないよ」  
 あゆみは真顔で姉たちの前でそう宣言した。
 「あゆみぃ」  
 あゆみのこの健気な宣言に理亜と沙穂はいたく感動したらしく、ぎゅむっと彼女を抱きしめた。そして、これ以上は何もあゆみには聞かせたくないらしく、今いる席とは反対方向の席へと彼女を連れて移動してしまった。
 「……あんたたち、一生嫁に行かない気? あたしはあんたたちの花嫁姿が唯一の心の支えなんだけど」  
 そんな妹たちの半ば暑苦しい抱擁ショーと退場に浅子はふっと溜息をついて、ぼそりと呟いた。
 「……だから、そういう関係は全部清算しますから。だから、だからっ――」  
 そして、浅子の呟きを縫うように、七世がテーブルに手をつき、そう頭を下げた。
 「七世さん……」  
 浅子は酷く困った声で七世の名を呼んだ。そんな二人のやり取りに涼はいたたまれない気持ちになった。
 「っ……仰りたいことは分かりました」  
 涼はそう冷たく丁寧な口調でそう言うと、ガタリとイスから立ち上がった。
 「リョウ! 」  
 七世が「諦めるの? 」と言わんばかりの表情で制止しようとしたが、涼はそんな彼女の手を振り払い、その場を離れようとした。だが、浅子がそんな涼の腕をぐっと掴み、彼をその場に引き留め、呆れた口調で言った。
 「仰りたいことって……あのねぇ、まだ、あたしは『駄目だ』って言うつもりないわよ。ともかく、落ち着いて座ってくれる? 」  
 涼は素直に浅子の指示に従い、彼女の側にぽすっと座った。涼のその態度に浅子はうんうんと頷いた後、まるで小さな子どもをあやすかのように、酷く穏やかな声でこう言った。
 「もう……今回の件についてはね、姉(あたし)たちの答えは出てるの」
 「は? 」
 「この前、あーちゃんがね、『バカ涼以外の人間に、あのコを任せられない』って言ったのよ。姉たちにさえ『あのコを完全には任せられない』って言ってたのに。あなたなら、確実にずっとずっと大事にしてくれるって」
 「え? 」
 「だから、姉たちとしてはもう何も言えない。ただ、あのコはまだ子どもだから……もう少しだけ、色々と待ってくれる、かしら? 」

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