第二章

絡まっていく糸 10

 「久しぶりだな、涼」  
 月明かりに照らされた庭園内の池のほとりで、湧が待っていた。普段着である薄色の着物に鳩羽色の羽織姿の祖父の姿に、涼はあからさまに不機嫌そうな眼差しを向けた。
 「……不服か。隠居した祖父から呼び出されるのは」  
 湧は涼の不機嫌そうな眼差しをさらりと受け流し、酷く穏やかな口調でそう問いかけた。
 「別に……ただ、詳しい用件も知らされずに突然呼ばれるのはどーも、な」
 「それは悪かったな……だが、なかなか本家(ここ)に顔を出さんお前を案じてな」  
 湧はそう言うと、涼を座敷へと誘った。
 「……口実(いいわけ)はどうでもいい。で、俺に何の用だ? 」
 「相変わらず気が短いの、お前は……『急いては事をし損じる』という諺くらい、知っておろうが」
 「はん……んなカビの生えてる昔の戯言なんて誰が知るか。さっさと用件を言えよ」
 「話というのは……五月あゆみ嬢のことだ」
 「…………」  
 あゆみの名前を出され、黙り込んだ涼の前に湧はぱさりと白い紙の束を投げた。その紙の束の表紙には系列の調査会社の名前と「五月あゆみ嬢に関する調査報告」と黒々とした字で印刷されていた。
 「五月のこと? 」
 「ああ……まず、結論から言う。この娘のことは、諦めろ」
 「はぁ? 何でアンタにんなことを言われなきゃなんねーんだ」
 「……お前、遊びで済ませられる女とそうでな女の区別もつかんのか」  
 湧のそんな言葉に涼は肩をすくめ、低い声でこう返した。
 「遊びじゃねーよ」
 「遊びじゃない、と言うか。なら、この娘に、今のお前はちゃんと向き合えるか? 傷を舐め合った女を切り捨てられぬ、お前に。つくづく、不器用な奴よ」  
 湧の言葉に涼はほんの一瞬、呆気にとられた表情を浮かべた。どうやら、祖父は祖父なりに、泥沼状態にいる自分のことを心配しているらしい。
 「……あらあら、涼が不器用なのは、旦那様(あなた)に似ているからでしょうに」  
 不意に縁側から、鈴を転がしたような、ころころとした笑い声が響いた。
 「う、あ……」  
 湧は先程までのふてぶてしい態度とは打って代わり、ほんの一瞬決まりの悪そうな表情を浮かべ、声がした方を見た。すると、閉ざされていた障子がするりと開き、そこには薄紫の和服を上品に着こなした、白髪の老婦人がいつの間にやら座っていた。
 「千代子、座敷で待っていろと言っただろう」
 「あら、さっきから、いつになったら、涼を座敷に上げてくださるのかと楽しみにしてましたのに、旦那様ったらなかなかそうして下さらないんですもの。だから、私(わたくし)待ちきれなくなってしまいましたの」  
 湧の妻であり、涼にとっては祖母である千代子はにこにこと春の陽気のような笑顔を浮かべ、おっとりとした口調でそう言い放った。
 「久しぶり、です……お祖母様」  
 千代子のおっとりとした口調と穏やかな笑顔に涼もそれまで露わにしていた毒気を抜かれ、酷く丁重な口調でそう言った。
 「涼、貴方が最近はちっとも本家(あちら)にも離れ(こちら)にも顔を出さないから、私、随分と寂しく思っておりましたのよ」
 「すみません……」
 「いいのよ、貴方が謝ることではないのよ。ただ、本家には色々と五月蠅いことをいう方々がいらっしゃるから、詮ないことだわ。私もそれが嫌で嫌で離れに移ったのですから」
 「千代子……もうしばらく、座敷で待っていなさい。まだ話は終わっておらんのだ」
 「あら……でも、要は旦那様は涼に『本気で五月さんという方を大事になさるつもりなら、その傷を舐め合った方とちゃんと決着をおつけになれ』と仰るおつもりだったんでしょ。涼だって馬鹿じゃありませんわ。その程度のことはちゃんと理解っているでしょうに」  
 千代子がころころと笑うと、湧は渋い表情を浮かべ、涼に座敷に上がるように再度促した。
 「……アンタも祖母ちゃんには弱いんだな」  
 座敷に上がりながら、涼は湧にしか聞こえないように、そう悪態をついた。すると、湧も涼にしか聞こえない声でこう返してきた。
 「黙れ……お前はあれの恐さを知らんのだ」
 「怖い……祖母ちゃんが? 」
 「うむ」
 「そ、想像がつかねーんだけど」
 「涼……女の恐さは見た目では分からんぞ」  
 湧のその言葉には何故だか妙に説得力があり、彼が千代子に頭が上がらないのは当然のようにすら思われ、涼は微苦笑を浮かべた。

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