第二章

絡まっていく糸 1

 「……家まで送るから」  
 電車を降りた後、家路を急ぐ人々で賑わうホーム内を涼はあゆみの手を、逃げられないようにきゅっと握り、スタスタと歩き出した。だが、あゆみがどうやらその場で足を踏ん張ったらしく、ぐいっと後ろに引き戻された。
 「五月? 」  
 涼がふっとあゆみの方を振り返ると、彼女はその大きな瞳に涙をじんわり浮かべていた。
 「……ど、どうして、ですか? 」
 「……悪りぃ、けど――」  
 涼は空いている左手であゆみの頭をまるで子どもをあやすようにぽんぽんと撫でた。
 「……やめてくださいっ! 」  
 だが、すぐにあゆみの手がそれを払いのけ、その拍子に繋いでいた手も離れた。払いのけられた手にくっと微苦笑を浮かべつつ、涼は更にこう続けた。
 「仕方ねーじゃん……その、気になっちまうんだから」  
 涼はわざと遠回しな「気になっちまう」という表現を使った。ここでまたストレートに「好きだから」なんて言ったら最後、またあゆみに「からかわないで下さい」と言い放たれ、激怒して逃げられてしまうと思ったからである。もう逃げられるなんてヘマは御免だと思いつつ、涼はあゆみの反応を待った。
 「…………」  
 どうやらその判断は正しかったらしく、あゆみはその言葉に対しては全く怒らなかった。 ただ、どう答えたらいいのかと、複雑そうな表情を浮かべ、涼の様子を伺っているようだった。その後、二人の間には長い沈黙が横たわった。
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 「……五月」
 「はい? 」
 「……その、だから、ごめん」  
 あまりに長すぎる沈黙に耐えられず、涼は思わずそう口走った。「ごめん」という言葉を口にはしたものの、一体いつのどんな言動に対するものなのか、涼自身も判らなかった。それは、今まであゆみに対して涼がしてきたこと全てに対する謝罪にはあまりに足りない。だが、それでも言わずにはいられなかった。すると、あゆみが少し困ったような微笑を浮かべ、そっと首を横に振った。
 「……いえ、謝るのは私の方です。鳴沢君に彼女さんがいらっしゃるって知らずに、色々と頼ってしまって。きっと、鳴沢君も、彼女さんも困ってらっしゃいましたよね」
 「え? カノジョさんって? 」  
 涼は思わずそう聞き返した。すると、あゆみは更にこう続けた。
 「あの夜……街中で、その、彼女さんと一緒にいらっしゃる所を偶然見かけたんです。それで理解ったんです。彼女さんにこれ以上余計な心配かけたくないから、きっとあんなこと仰ったんだろうなって」
 (あの夜ってのは、この前の夜のことだろ……ってことは、まさかナナセのことか? ってか、見られてたのかよ。アユミの奴、んなこと一言も言ってねーし。これが腹いせかよ)  
 あの夜、確かに七世にキスをしたことは事実だ。だが、それは涼がひた隠しにしていた本音を思い切り抉る七世の言葉を封じるための手段であり、恋愛要素は全くない。しかし、あゆみは涼と七世の関係については全く何も知らないわけである。何かしらの理由で喧嘩した後、感情を昂ぶらせ七世を宥めるために涼がキスをしたと捉えたことで、誰があゆみを責められるだろうか。
 (うわ……ど、どうやって説明すりゃいい? まさか、ナナセとは単なる傷舐め仲間だとは言えないし。だ、だいたい、傷舐め仲間って何だよ、説明できねーだろ。ああ、お互いに好きな相手の代わりに付き合ってたって言えばいいのか。ダメだ、言ったら、確実に何か軽蔑されそう。五月、そういうの厳しそうってか、貞操観念が強そうだしなぁ)  
 涼はふっと思い浮かべた自分の思考にそんな突っ込みを入れながら、遠い目で未だ足を踏み入れたことのない世界を見つめていた。
 「鳴沢君」
 「え、あ……だから、その」
 「気にされないで下さい。これはあくまで、私の気持ちの問題、ですから。だから、そのそんなに気遣って頂かなくても、大丈夫ですから。ありがとうございました」  
 あゆみは一生懸命に笑顔を作り、涼にそう言った。その笑顔が尚更涼の胸を締め付けた。
 「いや、だから……」  
 涼は必死になって誤解を解こうとしたものの、言葉が見つからなかった。それでも、何かしらもごもごと言葉を必死に紡ごうとした。だが、涼のそんな必死の努力を嘲笑うかのように、あゆみはそのまま駅の雑踏へと消えた。  

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