第一章

カノジョと彼女 9

 「……あーちゃんったら、何てことを――」  
 だが、涼のフォローはあゆみの耳には届かなかったらしく、彼女は相変わらず青ざめた表情でブツブツと何かを言っている。
 「いや、だから……俺がちょみっとイラっとして、壁を殴ったら、偶然そこに割れたガラスがあってさ。だから、その、気にすんな」  
 涼は思わず、怪我をしていない方の手であゆみを宥めるように柔らかな頬を撫でた。
 「な、鳴沢君? 」
 「え……あっ、わ、悪りぃ。つ、つい、な」  
 あゆみの困惑したような声で、涼は初めて自分が無意識にとってしまった行動に気づいて、慌てて手を離した。ほんの一瞬の沈黙の後、あゆみが俯いたままでぽそぽそと蚊の鳴くような声でこう呟いた。
 「……い、いえ。私こそ、取り乱しちゃって、その、ごめんなさい」
 「いや、その、別に」  
 どうしてこうも気の利いたセリフがあゆみの前では出てこないのかと、涼は己の不器用さを呪った。しかしながら、今も繋がれている柔らかくも温かな小さな手の感触と、すぐに離してしまったものの、指先に残る柔らかく滑らかな頬の感触に涼は心のどこかがふわりと温かくなる感覚を覚えていた。そんな感覚に、涼の脳裏には以前、暇つぶしに読んだマザーグースの一節が浮かんだ。  
 (女の子は砂糖と香料で出来てるとか……んなの単なる子どもの戯れ言かと思ってたけど、五月は実際、そうなのかもしれねーな。いやいや、五月も生身の人間だろ。妖精か何かじゃねーんだから、そこまで夢を見るのはヤバいよな。どんだけメルヘンな存在だと思ってるんだよ、俺。ってか、俺、どんどん駄目な方向に思考が行ってねーか? )  
 脳裏に浮かぶそんな考えに、涼は思わず舌打ちをした。すると、ぴたりとあゆみの足が止まり、彼女はおずおずと涼の方を向いた。
 「え? どうかしたのか? 」
 「い、いえ……あの、やっぱり、あーちゃんのこと、怒ってらっしゃるんですね? 」
 「な、何で? 」
 「い、いえ……」
 「ああ、俺が舌打ちしたから? 」  
 涼の問いかけにあゆみはこくっと頷いた。
 「あのなぁ……怒ってねーって。だいたい、怒ってたら、いくら別人格とはいえ、お前にほいほい付いていくかよ」  
 再びあゆみの頬に無意識に手を伸ばしかけた自分に気づいて、慌てて涼はそれを抑えた。その代わりに、安心させるために、あゆみにふっと微笑みかけた。
 「ほ、本当ですか? 」  
 そう問いかけてくるあゆみの少し不安げな表情すら、涼にとってはやはり恋愛フィルターのせいで、可愛く見える。自分の恋煩いの重症っぷりに苦笑いを浮かべながら、涼は黙って頷いた。すると、あゆみはやっと信じたらしく、ほぉっと安堵の溜息を零した。
 「よ、良かったぁ」  
 あゆみは可愛らしい声でそう呟くと、無邪気に微笑んだ。その微笑みは涼の感情を一気に昂ぶらせるのに十分なほど魅力的だった。  
 (ヤバい、ヤバい、ヤバイ)  
 何がヤバいのかははっきりと判らないが、ともかく涼は必死で平静を保とうとした。しかしながら、胸の高鳴りは鎮まるどころか、そんな涼を嘲笑うがごとく、更に激しくなった。  
 (ああ、止まれ、心臓……いや、止まっちゃマズいか。ともかく、落ち着け、俺! )  
 心の中で自分に必死でそう言い聞かせながら、涼はあゆみに手を引かれるがままに歩いた。時折、街で見知った顔が驚いたような眼差しを向けてきた。そんな眼差しを向けてくる誰もが、普段涼が連れている遊び相手たちとは毛色が全く違う、幼げな少女に彼が子どものようにすんなり手を引かれていることに少なからず驚いているようだった。だが、もうそんなことはどうでもいいくらい、涼は昂ぶった自分を落ち着かせるのに必死だった。  
 (落ち着け、落ち着け、落ち着け)  
 まるで呪文のように心の中でそう唱えてみるものの、全く効果がない。ライブの時、見知らぬ大勢の前で歌ってもそこまで感情が昂ぶることもないのに、こんなに息苦しくなることもないのに、今はもうどうしようもないくらいに感情が昂ぶって息苦しい。
 「……鳴沢、君? 」
 「…………」
 「鳴沢、君っ? 」  
 あゆみのそんな声に涼がふっと我に返ると、目の前に彼女の不安げな顔があった。
 「な、なななな、何だよっ」
 「いえ、あの……着きましたよ、姉の病院」
 「そ、そうか……」  
 もう闇の中でも誤魔化しようのないくらいに真っ赤に染まった頬をどうにか隠すように、涼はそう言い放った後、不機嫌そうに俯いた。

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