カノジョと彼女 8 涼が殴ったのは壁ではなく、そこに忘れ去られたように存在していた、既に割れた小窓だった。そのため、涼の拳はたらたらと赤い雫を零し始めた。どうやら、破片で切ってしまったらしい。 「……なるさわ、くん? 」 「あん? 」 不意にあゆみの保護者からおずおずとした口調でそう名前を呼ばれ、涼は拳から伝わるじっとりとした痛みに口元を歪めながら、そう不機嫌そうに返事した。 「えと……あの、大丈夫、ですか? 怪我、されたんですか? ちょっと、見せてくださいっ! 」 先程まで挑発していたのが嘘のように、急にあゆみの保護者が甲斐甲斐しく自分の流血した拳を手に取り、不安げながらも、まじまじと傷の状態を確認してくる。その姿に、涼は自分の頭の中の混乱を収めるためにも、こう問い掛けた。 「お前……もしかして、五月、か? 」 「は、はい……えっと、あの、すぐ止血しますからね」 あゆみは涼のそんな問い掛けよりも、彼の拳から滴る血を止めねばと思ったのだろう、慌ててパーカーから、やや大きめのタオルを取り出した。大きめのタオルには黄色い何かの絵柄がプリントされており、何かのキャラクターものであることは明らかであった。 「だ、大丈夫だって、こんくれーの傷は。ってか、その……」 「大丈夫じゃありません! 近くに姉が勤めてるんで、すぐそこに行きますよ! あくまで応急処置ですから、急がないと! 」 あゆみは普段のおっとりとした口調とは異なる、有無を言わさぬ酷く強い口調でそう涼を一喝すると、そのタオルを包帯代わりにして彼の拳に巻くと、手首につけていた髪ゴムでそれを固定した。 「じゃ、行きますよ」 「あ、ああ」 あゆみに手を出来るだけ心臓より上に上げるように指示され、涼は素直にそれに従った。そして、あゆみは怪我をしていない涼の手をきゅっと掴み、あからさまにいかがわしい店ばかり建ち並ぶ通りを足早に歩き始めた。 「……えっと、五月? 」 「心配しないでください。病院、すぐこの近くにあるので」 この場に似つかわしくない、幼げな体格と風貌の少女が自分より大きな少年の手を掴んでスタスタと歩く姿に、街の人々は好奇の眼差しを向けた。だが、そんなことは意にも介していないのか、あゆみの足は止まらない。そして、そんな愛しのあゆみにしっかりと手を握られているせいなのか、涼の心臓はまるで早鐘のようにばくばくと高鳴り続けている。 (まさか、アイツ、こうなるようにわざと俺を怒らせたんじゃねーよな) 涼の脳裏に先程まで自分を小馬鹿にした、あのあゆみの保護者の姿がぼんやりと浮かぶ。そう考えれば、涼が怪我した時点で普段のあゆみへとタイミング良く切り替わったことも何とか納得いく。 「な、なぁ、五月……ちょい、待ち」 「はい? どうかされましたか? 」 涼の問い掛けにあゆみが心配そうな表情でふっと振り返る。もし、このことを問い掛けてしまったなら、あゆみを困惑させてしまうかもしれないと恐れつつ、涼は訊かずにはいられず、恐る恐るこう切り出した。 「そのぅ……もう一人の五月のこと、なんだけど――」 「え? あーちゃんのこと、ですか? 」 だが、あゆみは全く困惑する様子もなく、あっさりそう涼に問い返した。 「あ、あーちゃん? 」 「ええ。名前の音が一緒だから、ウチでは彼女のことをそう呼んでるんです。表記はカタカナとひらがなでちゃんと区別してるんですけど……あーちゃん、何かしたんですか? 」 「い、いや……その、お前、知らないの? 」 「はい。だって、あーちゃんが表に出てる時は、私はその……深い意識の底で眠ってるんです。あーちゃんは私が起きてる間も、私の中から色々と視ているらしいですけど。それで、いつもは、私が起きるまではあーちゃんが表に出てるんですけど、今日はいきなりあーちゃんに叩き起こされちゃって――」 あゆみはすらすらとそう答えた。その口調はまるで日常の何気ない出来事を話すようにごくごく自然で、そのことに対して、少しもマイナスの感情を抱いていないことがよく伝わってきた。 「でも、いきなり何であーちゃんのこと……ま、まさか、その傷って、あーちゃんが」 急にあゆみの表情が青ざめ、おろおろとしたものに変化する。涼は慌ててフォローした。 「い、いや、俺が怪我してるところに、偶然、そのあーちゃんが、通りがかってさ――」 |