第一章

カノジョと彼女 16

 空が深い紺青色から段々と赤色に浸食されていく街を涼は珍しく走っていた。Kビルの階段の踊り場まで今すぐ行かなければならない、あゆみが泣いているのを何とかしなければならない、そんな衝動に駆られたせいだ。  
 ――ズット、階段ノ踊リ場デ泣イテオラレマシタ――  
 峰谷のそんな言葉が何度も何度も脳裏で繰り返される。まるでそれは自分をKビルまで疾走(はし)らせるための呪いの言葉のようだと、涼の口元には自然と微苦笑が浮かんだ。
 「はっきり言って、お前は恋愛対象外なんだよ。だいたい、お前みてーなガキ、興味ねーんだよ」  
 (んなコト言った後だってのに気まずいよな……第一、冷却期間があるならまだしも、すぐだぜ、すぐ。一体、どんな顔(ツラ)すりゃいいんだよ。だ、だいたい、これ以上関わるなって言ったのは俺自身じゃん)  
 たとえ偽りであったとはいえ、既に言ってしまったことと今からやろうとしていることがあまりに正反対というのはどうも気分が良くないというか、体裁が悪い、カッコ悪い。
 (やっぱ……しばらく、冷却期間、置こう)  
 頭の中でそう決めてはみるものの、すぐに泣き顔のあゆみのイメージがちらついて、バラバラとその決心は脆くも崩れ去った。
 (ってか、手ぶらで謝りに行くのは……駄目だよな。けど、コンビニで買った菓子か何かじゃ、さすがに手土産にしちゃ――)  
 ふっとそんなことを考えてしまった自分の考えの甘さに、涼は再び微苦笑を浮かべる。第一、あれだけ酷いことを言ったのだから、菓子がコンビニのものでなかろうが、許して貰えるはずがない。自然と、涼の唇からは溜息がほろりと零れた。
 「まぁ、そりゃそうだわねぇ」  
 不意に背中にぽんと置かれた手に涼が想わず振り返ると、そこには黒のキャップに紺のパーカーという姿のあゆみ、いや、アユミが半ば呆れたような表情を浮かべて立っていた。
 「…………」  
 アユミの目元がやけに腫れぼったくなっているのに涼はふっと気づいた。きっと、もう一人のあゆみが泣き疲れて眠ってしまった後で、アユミが出て来たのだろう。あゆみを目元が腫れるほどに泣かせてしまったことに、涼の胸はちくりと痛んだ。そんな痛みを感じながら、涼がアユミを見つめていると、彼女の小さな手にぐいっと襟元を引っ張られた。そして、アユミは涼の顔を彼女のそれと同じ位置まで下げさせた。
 「……な、何だよ」  
 涼が不満そうな声をあげると、アユミはじろりと彼を睨み付けた。アユミのその眼差しは酷く鋭いもので、涼がその手を振り解こうものなら、有無を言わさず刺し殺すぞと言わんばかりの迫力があった。だからこそ、涼は素直にそれに従い、ただ黙り込んでアユミを見つめていた。
 「五月……随分、泣いたんだな」  
 気の遠くなるような、そんな長い沈黙の後、涼はぼそりとそう呟き、そっとアユミの頬に手を伸ばし、腫れぼったい目元を戸惑いながらも、指先で撫でた。アユミはそんな涼の指の動きにあからさまに眉を顰めながらも、彼にその行為を続けさせた。
 「……そりゃ、好きだった男に『お前に想われるのは迷惑だ』なんて言われたんだから、泣かない方がどーかしてるでしょ」
 「わ……悪かった」
 「はぁ。謝るくらいなら、最初からあんなこと言わないでよ。それに、まず謝る相手が違うから。だいたい、実際あたしはアンタなんかにフラれてもちーっとも哀しくないもの」  
 アユミは呆れたような表情を浮かべ、肩をすくめた。
 (ああ、まぁ身体は同じでも中身は違うんだから、当たり前っちゃ当たり前か)  
 アユミの言葉に涼は微苦笑を浮かべつつ、そっと彼女の頬から手を離した。
 「……まぁ、頑張って」
 「え? 」
 「多分、あのコ、アンタから逃げ回ると思うから、ライブに誘う機会とかないかもねぇ」  
 どうやらアユミはまた涼の心を読んだらしく、ニヤニヤしながらそう言い放った。
 「…………」
 「まぁ……少なくとも、ウチの電話には出ないと思うわよ。姉貴たちも警戒してるし」  
 涼は言葉を返すかわりに、憮然とした表情を浮かべ、アユミをじろっと睨み付けた。すると、アユミはけらけらと笑ってこう言った。
 「まぁ、唯一アンタが近づけそうな機会と言ったら……あのコが金曜にこっちに帰ってくる電車の中くらいだと思うけど」
 「え? 」
 「あのコ、毎週17時15分発の若宮駅発の快速に乗って家に帰ってるの。まぁ、周囲に怪しまれない程度に待ち伏せしとけば? 」  

<< Back   Next >>