プロローグ

幻影と現実の歪み 6

    「起きてくれよ……」
    その晩も純平は風花の手をしっかり握りしめながら、まるで祈るように低い声でそう呻いていた。 いくら命に別状がなかったとはいえ、今の昏睡状態が続けば、風花の身体は限界を迎えてしまう。 その上、昏睡状態以前の風花の健康状態は決して良好とは言えなかった、むしろ最悪であった。
    「白々しいな……やっぱり、俺は―」
    純平は風花の細い二の腕から伸びる細い点滴チューブに視線を投げ、苦笑に似た微笑を浮かべた。 風花が目を覚ました時、彼女はきっと自分が置かれた状況に、周囲に拒否反応を起こすだろう。 いや、周囲と言うよりは……自分を自殺まで追い込んだ男に対してまず拒否反応を示すだろう。
    「何で助けたの? 」
    その時、今は甘く微笑している風花は恨めしそうな表情を浮かべ、そう問いかけるのだろうか。 それとも、そう問いかけることすら放棄して、以前と同じように沈黙と無表情を貫くのだろうか。 自殺に至るまでのこれまでの態度から察するに、きっと風花は後者の態度をとるに違いなかった。まだ風花が幸せだった頃、彼女はお喋りでくるくると面白いように表情を変える、少女であった。 5歳で天涯孤独になったという不幸な生い立ちを少しも感じさせない、愛らしさに彩られていた。
    「純ちゃんっ! 」
    仕事から帰ってきた自分を無邪気な笑顔で迎えてくれていた風花の姿が純平の脳裏を過ぎった。 だが、すぐに純平はそんな風花の姿をまるで消し去るかのように何度も何度も頭を横に振った。 どんなに色鮮やかで懐かしい姿であっても、それは過去の幻で目の前に横たわるのが現実だった。 一瞬でもその懐かしい幻に心を浸してしまえば、今ここにある現実が酷く辛くなってしまうのだ。 純平はひどく冷たい、風花の手をさらに強く握りしめ、懺悔するような低い声でぽつりと呟いた。
    「ごめん」
    今唇から零れたばかりだというのに、その言葉は冷たい病室の空気に冷やされて、白く凍りつく。 白く凍り付いた言葉はまるで他人のそれのように、何度も純平の耳元で白々しく繰り返される。 それでもやはり自分が風花に対してそれ以外の言葉を持たないことを、純平自身、理解っていた。 そして、この謝罪で救われるのはその言葉を向けられた風花ではなく、自分であることですら―。 風花は眠り続けている、今は何も恐れることがないように幸せそうに、いたいけな幼子のように。 今の風花はきっと自分に何も求めていない、ただ何か幸せな夢の中で甘く微睡んでいるだけだ。 それなのに、自分は単に罪悪感を解消するために、眠っている風花に白々しい謝罪の言葉を囁く。
    「私は貴方にもう何も求めていないの。ただ、眠りたいだけなの」
    風花の幸せそうな寝顔は彼女の無意識の無言のメッセージなのかもしれないと、純平は思った。 その寝顔を見ていると、今こうしていることが、どれ程自分本位な行動か思い知らされるからだ。 そう思い知らされるのが嫌で、純平はふと風花の寝顔から視線を病室の白く曇った窓に向けた。 昼下がりからずっと降り続いていた雨はいつの間にか白い雪に変わり、窓の外で舞い踊っていた。
    「雪か……道理で冷えると思ったよ」
    風花の閉ざされていた瞼がほんの少し動いたのは、純平が低い声でそう呟いた瞬間だった。


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