プロローグ

幻影と現実の歪み 5

    人間の脳は思い出すと精神が崩壊すると判断した記憶を消してしまうことがあるらしい。
      「……じゃ、行ってくるな。出来るだけ早めに戻るようにすっから」
    「はぁーい、行ってらっしゃいっ! 」
    純平が仙台で開催される学会に父親の代理として出席するため、3日間家を空けることになった。胸に押し寄せる少しの寂しさを押し殺しながら、風花は満面の笑顔でそんな純平を見送った。今この世界で生きている全ての人間の中で自分が一番幸せだと信じるほど、風花は幸せだった。この幸せが過去の幻影であることなど、現実ではないことなど、すっかり頭の中から消えていた。この心地の良い幻想こそが現実の世界であり、全てなのだと風花はすっかり信じ切っていたのだ。風花が純平の乗った車が路地を曲がって見えなくなるまで見つめていた時、不意に誰かが囁いた。
    「起きてくれよ……」
    そう囁く声は純平のそれのようにも、全く知らない人間のそれのようにも聞こえるものだった。
    「誰? 」
    風花は不審そうな表情で自分の周囲を見回したが、視界の限りでは人影一つ見当たらない。
    「空耳……かしら。最近、忙しかったし―」
    疲れているのかもしれないと自分なりに空耳の理由を決めつけ、風花は家に戻ろうとした。だが、次の瞬間、風花はさっきよりもはっきりと男の怒声が自分の名前を呼ぶ声を聞いた。
    「風花っ! 」
    不思議なことに、風花はその声を聞いた瞬間、急に身体がブルブルと震え出すのを感じた。
    「殴られるっ! 」
    何故そんな風に思ったのかは理解らないが、その瞬間、風花は確実にそうなると感じた。頭を抱えてその場にうずくまり、しばらく経った後、風花はようやく平静を取り戻した。
    「殴られるって……誰にかしら? 」
    よく考えてみれば、視界の限りでは人影一つ見当たらないのに、誰に殴られるのだろうか。
    「やっぱり……私、疲れてるんだわ」
    幻聴に踊らされて居もしない誰かに殴られることを恐れるなんて、酷く馬鹿げた話である。最近よく観ていた昼のメロドラマがそういう内容の話だったせいなのかもしれない。浮気相手に色々吹き込まれた夫に暴力を受けた妻が昏睡状態の中で幸せな夢を見ている。先週末に放映された内容が内容だっただけに、微妙に印象に残っているのかもしれない。
    「あれはドラマの話……というか、私には一生縁のない話だわ」
    ほんの少し苦笑の混じった独り言をぽつりと呟き、風花は自分の周囲を改めて見回した。今まではっきりと見えていたはずの家々が、周囲の景色がほんの少しだけぼやけ始めた。
    「え? 」
    いや、それだけで終わらず、景色は色と形を失って、何もない白い空間へと変化していく。
    「何っ? 」
    風花がそう呟いた次の瞬間、彼女は誰かに引き戻されるような、そんな感覚に囚われた。
    

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