幻影と現実の歪み 4 「……あーあ、何で助けちゃったのかしらぁ」 病室の窓から見える夜明け前の景色を眺めていた純平の耳に、不意に女の嘲るような声が響いた。その女の声に聞き憶えのあった純平は微かに眉を顰めて、のろのろと声のした方に視線を投げた。 「菜穂……っ」 純平の視線の先には高級ブランドですっかり身を固めた、顔立ちの整った若い女が立っていた。菜穂と呼ばれた若い女はベッドで眠る風花の顔を見た途端、その官能的な紅い唇をきっと歪めた。 「ったく……放っておけば死んでたのに―。貴方ってお人よしねぇ」 菜穂は忌々しそうにそう呟いた後、窓の近くに立っていた純平の背中に猫のように甘え始めた。だが、菜穂のそんな行為に、鼻腔をくすぐる香水の香りに、純平の表情が緩むことはなかった。むしろ、ねっとりと絡みつくようなその甘い香りや温もりは、ただ酷い嫌悪感しか与えなかった。今まで魅力であったはずの菜穂の女の部分に酷く嫌悪感を抱いているのは、一体何故なのだろう。それはきっと、傍のベッドで眠る風花があまりにも女の部分を失っているからなのかもしれない。 「菜穂……悪いが、帰ってくれないか? 」 純平はその機嫌を損ねないように優しい声で、自分の背中に甘え続けている菜穂にそう頼んだ。 「えーっ……じゃ、送ってくれる? 」 普段と違う恋人の態度に気付かないのか、菜穂はいつもの甘えるような口調で純平にそう囁いた。菜穂にとっては今の自分が周囲にどう思われているかも、風花のことも、どうでもいいのだろう。自分と結婚すればいずれ院長夫人になれるという、浅はかな未来予想図しか頭にないのだろう。そんな菜穂を愚かだと思う反面、そんな彼女に惹かれていた自分も愚かなのだと純平は苦笑した。 「駄目だ……タクシーでなら、一人で帰れるだろ?」 「えーっ……送ってくれなきゃ、帰らないよ、アタシ」 菜穂が不服そうに口を尖らせながら、純平の白衣を掴んで、その潤んだような瞳で彼を見つめた。 「馬鹿言え……風花、いや、病人をそのまま放っておけるかよ」 純平は眠っている風花を起こさないように小声で菜穂にそう言い放つと、彼女の身体を離した。 「……ふんっ、今さらいい夫ぶったって、自殺未遂されたって事実は変わらないのよ? 」 普段は通用する甘えが通じなかったことにその気分を害したのか、菜穂は嘲るようにそう笑った。確かに菜穂の言う通りなのだということは純平自身も理解っていたが、それでも傍に居たかった。今は微笑を浮かべて眠っている風花だが、その微笑は彼女が目覚めた瞬間に消えてしまうだろう。そして、また何の感情の起伏も感じられない、人形のような表情にきっと戻ってしまうのだろう。だからこそ、寝顔であれ、これが風花の微笑みを見る、純平にとっては数少ないチャンスだった。 「理解ってるさ、その位のことは……だけど、俺は―」 純平がそんな言葉を紡ごうとした瞬間、何を考えたのか菜穂はぽんっと手を叩き、彼に微笑んだ。 「ああ、でも、お父様たちの心証を良くしとかないと、病院を継げないのよね……分かったわ」 未来の院長夫人になる為には仕方ないことと思ったのだろう、菜穂はあっさりと帰ってしまった。そんな菜穂のあまりの変わり身の早さに純平は苦笑を浮かべつつ、彼女を見送ったのだった。 |