幻影と現実の歪み 3 「……風花、そろそろ起きろよ」 眩しい朝の光がカーテン越しに柔らかく漏れ注いでいる寝室で、風花は誰かに揺り起こされた。 「ん……」 風花がふうっとゆっくり瞳を開けると、そこには少し呆れたような笑顔を浮かべる純平がいた。 「ど……うして? 」 風花は自分に向けられる純平のそんな笑顔にびくっと身体を小さく震わせ、震え声でそう呟いた。途切れる前の記憶では自分は薄暗い地下室で薬を飲んで自殺したはずなのに、何故か生きている。「怖い」という感情がすっと背筋に走る、そんな感情なんてとっくの昔に失くしたはずだった。それなのに、自分は「怖い」という感情を目の前にいる純平に対して抱いている、何故だろう。しかも、そんな自分にあの純平が呆れながらも優しい笑顔を向ける、何かの間違いに違いない。 「どうして? なかなか、酷いな……俺たち、この前夫婦になったんだろ? 」 まだ慣れてないから仕方ないかと笑いながら、純平は半分泣きかけの風花をそうっと抱き寄せた。 「この前? 」 純平のその言葉にふっと違和感を感じ、風花は少し湿った声で首をかしげながらそう問い返した。風花が純平と結婚したのはかれこれ2年前で、彼女はまだその時18歳になったばかりだった。今の風花はもう20歳だというのに、純平はついこの前、結婚したばかりのような口ぶりである。 「ああ……ったく、寝ぼけるのも大概にしろよ」 純平は首をかしげながら問いかける風花をさらにきゅっと抱き締めながら、彼女の頬をつついた。そんな純平の仕草から、今、自分が過去の幸せをなぞった夢の中にいることに風花は気付いた。そんな他愛もない事実に気付いた瞬間、不意に風花は可笑しくなって、くくっと喉の奥で笑った。地下室での生活をしている間に純平に対する感情はすっぱりと切り捨てていったつもりだった。それなのに、こうして過去の幸せだった夢には純平がこうして登場し、自分を抱き締めている。これは自分が純平への感情を全て切り捨てることは出来なかったのだという動かぬ証拠である。結局、純平への感情を切り捨てられないまま自分が逝くことが、風花にとって酷く可笑しかった。 だが、そんな自分を嘲笑いながらも、今のこの幸せを夢として切り捨てることは出来なかった。 「風花? どうした? 」 そんな理由で風花がくくっと喉の奥で笑っていると、純平が不安げな声で顔を覗き込んできた。目の前にいる純平は自分を大切にしてくれていた頃の夢、幸せだった過去の幻影にしか過ぎない。それでも、そんな優しい幻影に辛い現在の姿を重ね合わせて、冷淡な態度を取ることは出来ない。 「ごめんね……純ちゃん。昨夜ね、夢を、悪い夢を見たせいだから―」 風花はぽつりと呟くと、自分を壊れものに触れるように抱き締める純平の胸にそっと顔を埋めた。 「悪い夢? そっか、でも夢は夢だし……忘れちゃえよ」 風花の髪を大事そうに撫でながら、純平はすっと目を細めて優しい声でそっと彼女にそう囁いた。 「うん……忘れる。悪い夢だもの―」 心地良い過去の幻影の温もりに優しく包まれて、風花は辛かった現在を忘れてしまうことにした。 |