幻影と現実の歪み 2 「……まさか、こんな手を使うとはな―」 真夜中の病室で、純平は風花のまるで死人のように冷たい手の脈を取りながら、低くそう呻いた。風花が昏睡状態に陥った直後、純平は彼女が食事を取ったか確認する為、地下室を訪れていた。というのも、ここしばらくの風花は殆ど食事を口にせず、痩せ細っていくばかりだったからだ。いくら既に戸籍の上だけであるとはいえ、医師の妻が衰弱死するなどということは醜聞である。ただでさえ菜穂との関係で周囲に密かに白い目で見られているというのに、堪ったものではない。今夜は多少乱暴な手を使ってでも食べさせようとしていた矢先、昏睡状態の風花を発見したのだ。幸い、傍に落ちていた殻で薬の特定がすぐ出来た為、口に砂糖を含ませ、さっさと病院に運んだ。病院が隣接した場所に建っており、処置が早かったせいだろう、その命には特に別状は無かった。ただ、夜勤の看護婦に処置を手伝ってもらった為、今回のこの醜聞はすっかり広まってしまった。 「若奥様、お気の毒に……ちょっと見ない間にあんなに痩せ細ってらして―」 「しっ、若先生に聞かれちゃうわよ……けど、本当に酷い話よねぇ」 純平は廊下で交わされるそんな看護婦たちの会話に軽く舌打ちをしながら、風花に視線を投げた。確かに以前の風花はもう少しふっくらした体型で、肌も健康的な色だったし、髪にも艶があった。だが、今の風花はすっかり痩せ細った上に肌は酷く青白く、髪もすっかり痛んでバサバサである。そして、そんな風花の身体の所々には純平と菜穂から受けた虐待の痕が青痣として残されていた。その上、その痩せ細った二の腕には鋭利な刃物でつけたような細い傷跡がいくつも刻まれている。 「お前……自傷行為でもしてたのか? あー? 」 純平は半ば苛立った口調でぽつりとそう呟き、今もまだ昏睡状態にある風花の顔を覗き込んだ。その表情はお菓子の夢を見ている幼子のようで、より一層純平の苛立ちを増大させるはずだった。だが、可笑しなことに風花の安らかな寝顔を見た途端、純平の苛立ちはふっと薄らいでしまった。 「っ……何を安心してるんだか、俺は―」 先程までの苛立ちが風花の寝顔を見た途端、薄らいでしまったことに、純平はくくっと笑った。普段、風花を酷く邪魔だと考えているのに、こうして彼女が命を取り留めたことに安堵している。醜聞とはいえ、風花が命を取り留めたことで、周囲の白い目を多少避けられるからだろうか? いや、それでも風花をそこまで追い詰めたことでやはり白い目で見られるのだから、同じだろう。それでは何故、風花の安らかな寝顔を見た途端に自分は安堵したのか、純平はふっと考え込んだ。その理由に心当たりはあったものの、純平は今さら自分にその感情があるとは認めたくなかった。 「白々し過ぎるよな……」 手を伸ばせばそこにある安堵の理由を見据えた後、純平は自嘲気味に酷く低い声でそう呻いた。その理由はすっかり飽きてしまった、お気に入りの玩具を捨てる時にそれを躊躇うのに似ている。捨てるまで玩具箱の隅に押し込んでその存在を忘れていたのに、捨てるとなると酷く愛しくなる。捨てるという行為が自分の意志でなされたものでない場合、尚更、そんな思いに駆られてしまう、だからこそ、外聞が悪いからなんて上手い口実をつけて、自分は風花を手元に繋ぎ止めたのだ。いつの間にか、窓の外でちらちらと舞い踊っていた雪は針のように鋭く冷たい雨に変わっていた。 |