プロローグ

幻影と現実の歪み 1

    風花は冷たく、薄暗い地下室にある、天窓に舞い落ちる雪を眺めながら、ぽつりとこう呟いた。
    「予報どおりの天気だわ……ということは、今夜が一番かもね」
    その呟きはコンクリート剥き出しの地下室によく響き、彼女はほぉっと深い溜息を一つついた。溜息は風花の唇から零れると同時に白く染まって現れたが、すぐに薄闇の中へと消えていった。爪先まで凍るような冬の夜だというのに、風花に与えられた防寒具は薄っぺらの毛布1枚だけだ。コンクリートが剥き出しの床に横たわり、明日の朝には自分はちゃんと死んでいるだろうか? そんなことを考えながら風花はその毛布を肩に羽織ったまま、裸足でコンクリートの床を歩いた。だが、風花が足の裏から伝わってくる、肌を切り裂くような冬の気配を感じることはなかった。この生活に慣れる過程の中で、風花は身体の感覚や感情や表情を殆ど完全に失ってしまっていた。感覚や感情、そして表情は今の自分に不必要だったからこそ、失ったことを風花は知っている。そして、今ここで死を選択するしかない自分には、それらは上等過ぎる人間らしさだったことも。ここでの生活が始まって以来、自分が本当に生きているのか、疑わしくなったことがよくあった。最初の頃は「バカバカしい! 」などと、頭の端にそんな考えがふと浮かぶ度に打ち消していた。だが、段々感覚や感情、表情を失い始めた頃から、ある確認行為なしにはいられなくなっていた。ある確認行為……それは、自分の身体の一部を刃物で切りつけること、いわゆる自傷行為だった。生暖かい血が肌をしたたる感覚、少し鉄臭い血の匂い、そして身体に鮮やかにはしる鋭い痛み。そんな生々しい感覚がその頃の風花に自分がまだ生きていることを確認させていたのである。だから、身体中の感覚を殆ど失った今の風花にはその確認行為は何の意味も成さないものだ。しかし、意味を成さなくなった今でも相変わらず風花は週に一度の割合でその行為を続けていた。何故自分がそうした無意味な行為を取り続けていたのか、その理由は風花自身にも分からない。ただ、その行為に浸っている時だけ、風花は自分の惨めな今の境遇のことを考えなくて済んだ。夫の純平とその愛人、菜穂に一日中酷使された上に暴力を振るわれ、地下室に軟禁される毎日。そんな日々を数ヶ月も過ごしながら、自分はよく気が狂わなかったものだと風花はふと思った。ただ、気が狂わない代わりのように、身体が着実に駄目になり始めていることだけは確かだった。しかし、そんな他愛もない事実をあの二人は全く気づいてもいないから、別に構うことはない。風花は部屋の隅に置いてあった、白いプラスチックのトレーとそこに載っていた食料を一瞥した。今朝のあの二人の朝食を作った際に切り落とした食パンのみみとコップ一杯の腐りかけの牛乳。一日あれこれこき使われているくせ、風花にとってはこの一食が唯一の栄養補給源になっていた。しかし、今夜の風花は備え付けの水道の水を口にしただけで、それらには全く手をつけなかった。その代わり、その手には医者である純平から密かにくすねた糖尿病の薬がしっかり握られていた。あの純平のことだ、ちょっとくらい薬の数が減ったからといって気づくようなことはないだろう。もし仮に気付いたとしても、明日の朝には自分は確実に死んでいるのだから、構うこともない。風花は何ら躊躇う様子も見せず、一気に件の薬を冷たい水道水と一緒に、その喉に流し込んだ。薬が効き始めたのだろう、段々と意識が朦朧と、遠ざかっていくのを風花はぼんやり感じていた。そして、天窓から見える雪景色を確認した後、瞳を閉じ、静かにその意識を手離したのだった。


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