!DOCTYPE HTML PUBLIC "-//W3C//DTD HTML 4.01 Transitional//EN">
第5章

秘めたる良心と露わなる悪意 5

 真夜中、風花は病棟の吹き抜けにあるベンチに座り、ミチルのことをふっと思い出していた。
 「風花、おめでとう! いよいよママね! 」  
 純平と菜穂に罵倒され暴力を受ける日々が始まって約2ヶ月半位経った頃、風花は身体の不調を感じた。そのため、純平にどうにか頼み込んで、従姉妹のミチルの病院に行かせて貰った。
 「えっ……」  
 ミチルの嬉々とした様子に、風花は現在自分が置かれている状況を口にすることも出来ず、ただ黙っていた。そんな風花の様子に不穏なものを感じたのか、ミチルは不安げな表情を浮かべた。
 「どうしたの? 嬉しくない、の? 」
 「…………」
 風花はミチルのその言葉に戸惑った。幸せな生活から一転して、地獄のような毎日に突き落とされた今の自分に宿った、新しい命。何てタイミングが悪いんだろう。自分が明日生きているのかどうかも分からないようなこんな状況下で、子供なんか産めるわけがない、もし無事に産まれたとしても、育てられるわけがない、風花はぎゅっと唇を噛み締めた。ミチルは更にこう続けた。
 「まぁ、色々あるわよね……それに、気になったんだけど、その足の痣、どうしたの? 」  
 ミチルはそっとその白魚のような指で風花の左脛を指した。そこには昨夜純平に蹴られた時に出来た、真新しい青痣がくっきりと浮かび上がっていた。
 「……こ、転んだの。ほ、ほら、私、お、おっちょこちょい、だからっ」  
 「ミチルに、俺らのことバラしたら、どうなるか、理解ってんだろうな? 」と純平に髪を掴まれた時の恐怖がふっと過ぎり、風花は無理矢理明るい声でそう答えた。暴力のことをミチルに明かしたら、純平と菜穂にどんな酷いことをされるか考えるだけでも恐ろしかったし、幼い頃から姉同然に自分を可愛がってくれているミチルに余計な心配も、迷惑をかけたくなかったからだ。
 「転んだ……ホントなの? 」
 「う、うん……」  
 風花はまるで赤べこのごとく、ぶんぶんと頭を縦に振り、必死にその場を切り抜けようとした。
 「……ふーちゃん」  
 ミチルは酷く哀しげなまなざしで風花を見つめた後、子どもの頃の呼び名で彼女を呼んだ。
 「何かあったら、すぐに言うのよ。私、力になるから。真夜中でも、飛んでくから」  
 ミチルのその言葉に風花は思わず本当のことを口にしそうになった。しかし、身体に刻みつけられた恐怖が辛うじてその衝動に勝った。風花は必死で作り笑いをし、元気な自分を装った。
 「う……うん、ありがとう。け、けど、大丈夫だよ」
 「ふーちゃん……」  
 あの時、恐怖を振り払って本当のことを話していたら、あの家を出ていたら、今頃自分はこの手に可愛らしい子どもを抱けていたのかもしれない。風花は酷く小さな声で低く呻いた。
 「……ごめんなさい。もう、どれだけ謝ったって、この罪は消えないけど――」  
 その懺悔の声はしんと冷たい病棟の空気に触れ、まるで溶けるように跡形もなく消えていった。  

<< Back   Next >>