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第3章

自己による断罪と他者による救済 4

 きっと熱を帯びているのだろう、さっき修二に殴られた左頬がジクジクとひどく疼いていた。
 「ああ、俺に出来ることはこれだけだ」
 先程、修二はそう言うと純平の左頬を殴りつけた。やられたらやりかえす、それが純平のモットーだった。しかし、純平の拳は硬く握られたまま、修二に向けられることはなかった。
 「……殴り返せよ、ほら! 俺が昔は女だったから、殴らないのか? 」
 純平のそんな態度に苛立ったのか、修二は再び小馬鹿にした口調で彼を挑発した。しかし、相変わらず純平の拳は硬く握られたままであった。修二の目には何故だか、涙すら浮かんでいた。
 「何だよ、殴れよ、ほら! アイツを殴った時みてーに! 」
 純平にはそんな修二の悲鳴のような挑発の声が、姿が、あの頃の風花のそれらに段々と重なっていた。いつからだったろう、風花が泣かなくなったのは。悲鳴すらあげなくなったのは。
 「……ほら、泣きなさいよ! 泣いたら許して貰えるかもよぉ」
 菜穂が挑発する声がどこからともなく聞こえてくる。純平はビニールの紐で手足を縛られ、タオルの猿轡を噛ませられた風花を、何度も何度も殴り、蹴り上げた。時折、その身体から鈍い音が聞こえたが、風花は床に転がったまま、沈黙を守り続け、微動だにしなかった。微かな呼吸音だけは時折聞こえていたものの、その姿はまるでよく出来た人形に似ていた。
 「面白くないわねぇ。ねぇ、爪でも剥いでみる? 」
 風花が人形になってからというもの、菜穂は毎回のようにそう提案したが、純平は「家事をさせる時に不都合が出る」と、いつもそれに同意しなかった。だが、本当はそれが理由ではなかった。多分、風花は仮にそうされたとしても、相変わらず人形で居続け、菜穂の残虐性を更に掻き立てることになる、彼女に殺されてしまうと、確信めいた妙な予感があったからであった。
 「風花、ほら救急箱だ」
 その後、菜穂が病院の寮に帰るといつも、純平は微かな罪悪感を払拭するために、風花の手当てをしてやろうとした。だが、風花はいつもそれを嫌がるように、救急箱だけを受け取り、ふらついた足取りで地下室の隅にじっと居座るのだった。そして、自分の傷の手当てをするでもなく、ぼんやりと救急箱の中身を見つめていた。時折、救急箱のハサミを手にとってじぃっと眺めていたこともあった。さすがにその時だけは「刺されるかもしれない」と純平は身構えた。だが、風花はまるで純平などいないかのように、ただじぃっとハサミを酷く昏い眼差しで見つめていた。
 「ふ、風花っ? 」
 だが、ある晩、そんな風花の様子に異変が生じた。風花が自分の髪にハサミを入れたのだ。いつものようにハサミをじぃっと見つめた後、風花は背中の半分まであった自分の髪を、躊躇いなく切り落とした。その雰囲気はまるで厳粛な儀式に似て、それ以上の言葉を発することは許されない気がして、純平はただ黙って風花のその儀式をじっと見つめることしか出来なかった。
 ――さくり ぱさっ さくり ぱさっ ざくり ばさっ――
 しぃんとした地下室の中で、ハサミが空気や髪を切る音、それが床に落ちる音だけが響いていた。あの晩、風花は何をどう感じ、どう思っていたのだろう。今の純平はそれが知りたかった。


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