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第2章

知らぬ者の幸福と知る者の嘆き 5

  「死なせてくれるんなら……いつだって死ぬ、わよ」
  菜穂が去り、そして純平も往診でいなくなった病室で、風花は目を瞑ったままぼそりと呟いた。夢うつつで聞こえてきた菜穂の「さっさと死ぬなら死になさいよねぇ! 」という罵声。別にそんなことを言われる前から死ぬつもりだったのに、それを純平に阻止されたからこそ、こうして生き恥を晒している。そんな事情を菜穂は知らない、いや、あの貧弱な思考ではきっと明確な事実から導き出される単純な事実さえも、理解出来ないだろう。風花は菜穂を完全に見下していた。
  「……ん? 」
  風花は起き上がろうと、ふっと手足を動かそうとした。だが、両腕に妙な拘束感を感じた。ゆるゆると目を開け、交互に両腕を見ると、手首に白い包帯が巻かれ、そしてそれの端っこはベッドの支柱へと固定されていた。幸い、ナースコールやテレビのチャンネルはご丁寧に手元に置かれており、それほど困ることはないのかもしれない。だが、更に自由を奪われたような気がして、風花は一瞬、その表情に不快感を滲ませた。だが、それはすぐに泡のように顔から消えていく。
  「これ……外して貰えない、ですか? 」
  風花は手元のナースコールを押して、やってきた病棟の看護師長、サキムラにそう頼んだ。だが、サキムラは申し訳なさそうな表情で首を横に振り、酷く穏やかな口調でこう答えた。
  「申し訳ございません、若奥様。それは若先生と副院長先生に固く止められておりまして」
  「そう……なら、そこの引き出しに入ってる、ハサミ取ってくれません? 自分で切りますから」
  「いえ、それも駄目なんです……その、若奥様には絶対に刃物を持たせるなとのお達しですから」
  「……大丈夫ですって。もう、しくじったりしませんから」
  風花のその言葉を聞いた途端、サキムラの表情が微かに歪んだ。「しくじったりしませんから」という言葉の主語を察したのだろう。だが、それはすぐに普段の穏やかな表情へと切り替わった。
  「若奥様、お腹がお空きでは? 何か召し上がられてはいかがでしょう」
  「ありがとうございます。でも、別に空いてないんです……もう何も食べたくないですから」
  「駄目ですよ、それじゃ」
  「……『風月堂』のミルクプリンなら、食べられるかも、しれないです」
  どうあってもサキムラが引き下がらないと分かった風花は、昔自分が好きだったお菓子屋の人気商品の名を挙げた。開店前から並ばないとなかなか買えないのだから、絶対に今すぐには手に入らないと考えたからであった。しかし、サキムラはその言葉に嬉しそうにこう答えた。
  「そう仰ると思いまして、実は先程、買ってきたんですよ」
  「……買えたんですね」
  「ええ! 最近はあそこも息子さんが店を継いで、可愛いお子さんまで生まれたとかで、随分と張り切ってらっしゃるようですよ」
  他人事のくせに酷く嬉しそうに語るサキムラの表情に、風花は酷く苦々しい表情を一瞬浮かべた。しかし、だからと言って、それを表に出し、サキムラに自分の心を悟られたくなかった。だからこそ、風花はまるでよく出来た人形のように、しばらくの間、ぼんやり天井を眺めていた。


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