知らぬ者の幸福と知る者の嘆き 4 まるで先程までの騒ぎが嘘のようだと純平はふっと苦笑いを浮かべた。打たれた鎮静剤が効いてきたのか、風花はまるで幼子のように微かな寝息を立てて眠っていた。彼女の寝息以外、しんと静まりかえる病室の空気を震わせるものはない。だが、病室に微かに漂っている鉄の香りと、風花の腕に巻かれた真新しい包帯が、先程までの騒ぎが現実だったことを告げている。 「……なぁ、風花」 純平はそっと風花を呼んだ。だが、薬が効いている彼女にその声は届かない。それが理解っていながら、純平はまるで呪文のように何度も何度もその名を呼んだ。 「ねぇ……何、してるのぉ? 」 唐突に、病室のドアが開き、菜穂がすっかり呆れかえった表情を浮かべてずかずかと入ってきた。勤務明けなのだろう、その服装は既に見慣れたナース服ではなく、露出の高い私服であった。 「別に……」 「別にって……何度も何度もこんな奴の名前を呼んでさぁ、バカじゃないのぉ」 お前のその気怠そうな喋り方が、甘えたような鼻声の方がよっぽど馬鹿みたいだと言い返したくなる衝動に駆られ、純平はくっと膝頭を掴んで、その言葉を飲み込んだ。ここで菜穂に言い返すのは簡単だ。だが、言ったところで、彼女は引き下がらないだろう。そして、結果的には、以前別れ話をした時のように、わぁーわぁーと子どものように泣き叫ぶだろう。それが理解っていたから、純平は何も言い返さなかった。既に二人の関係は周囲に知れ渡っているのだから、別に騒がれてもどうってことはなかったのだが、今ようやく落ち着いて眠った風花を起こすわけにはいかなかった。それだけの理由だったが、それは純平が言葉を飲み込むのには十分な理由だった。 「……ってかさぁ、これって、離婚の理由になるよねぇ」 ちらりとベッドに視線を投げた後、菜穂はどこか嬉しそうにそう訊いてきた。確かに離婚事由の一つとして、その病状や離婚後の生活状況などを考慮した上で、精神疾患が挙げられることが以前はあった。しかし、今は余程のことがない限り、離婚が認められる事例はないのだと、純平は淡々と菜穂に説明した。すると、菜穂はそんな純平の態度に苛立ったらしく、壁に立てかけられていた、折畳み式のパイプいすを軽く蹴り倒した。 「……菜穂っ! 」 「いいじゃないのぉ……ってかぁ、風花、さっさと死ぬなら死になさいよねぇ! 」 菜穂はベッドの風花に向かってそう言い放つと、不機嫌そうに鼻を鳴らしながら、純平の腕にきゅっと抱きついた。 「な、何だよ? 」 「だって、純ったらぁ、最近、全然遊んでくれないでしょぉ? ねぇ、いいクラブ見つけたのぉ」 「行かない……お前、いい加減にしろよ! 」 「いい加減にしなきゃなんないのは、純でしょぉ。いつまでアタシを待たせるつもりなのぉ」 菜穂が腕にその身体を擦り寄せてくることに酷い嫌悪感を覚えながら、純平は腕に抱きついた彼女を乱暴に振りほどき、冷たく背中を向けた。 「帰れ……二度と俺の前に顔を見せるな」 |