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第2章

知らぬ者の幸福と知る者の嘆き 3

  真っ白いタオルに刺繍を施す仕事は風花にとって酷く良いものだった。その仕事をしている間、本当に何も考えなくても良かったし、作業の邪魔になってはいけないと、これまでは五月蠅いくらい様子見に来ていた看護師たちも副院長である小夜子に遠慮しているのか来なくなった。だから、ここしばらくは平穏な日々が続いていた。しかし、それは望まぬ来訪者によって脆くも崩れ去ることになった。
   「……風花、ちょっといいか? 」
 純平だった。しばらく見ないうちに少し無精髭が伸び、ほんの少しだけやつれたように見えた。
   「……何、ですか? 」
 純平にちらりと視線を投げた後、風花はすぐに手元に視線を戻し、酷く冷たい声でそう問いかけた。すると、純平は自分に視線を戻そうとしない風花に苛立ちを覚えたのか、左手でぐっと乱暴に彼女の腕を掴んだ。
   「人の話を聞くときは顔くらい、上げろ」
   「……ごめんなさい、早く仕上げなきゃならないから」
 風花は表面上だけ申し訳なさそうにそう言い放つと、すぐに作業に戻ろうとした。だが、純平はそれを許さず、左手で風花の手を掴んだまま、右手でぐっと顔を上げさせた。これ以上の抵抗は時間の無駄だと、風花は素直にそれに従った。だが、腕を掴んでいる、顔を上げさせている、純平の力が緩むことはなかった。
   「……お前、何か調子に乗ってねーか? 」
   「センセーこそ、お約束をお忘れでしょうか? 」
 あまりにふてぶてしい純平の態度に、風花は冷たくそう言い放った。予想では、そう言えば、純平はすごすごと引き下がるはずだった。だが、その予想に反して、純平は相変わらず、どこか風花を支配しているような、そんな態度を崩さなかった。
   「約束ぅ? ああ、あれか……」
   「……もう、私のことは放っておいてくださいと申し上げたはずですが? 」
 風花は酷く他人行儀な口調でそう告げた。すると、不意に顔を上げていた純平の右手がぱっと離れた。しかし、ほっと息をつく間もなく、風花はベッドから引きずり落とされた。
   「……くぅっ」
 引きずり落とされた身体が冷たい床に叩き付けられ、風花は思わず呻いた。だが、その痛みにうずくまっている暇はない、風花はふっと自分と同じく床に落ちた糸切り鋏をくっと掴んだ。
   「……だから、調子に乗るんじゃねーよ」
 糸切り鋏を掴んだことに純平はまだ気づいていないようで、頭上から相変わらず威圧的な態度でそう怒鳴りつけた。だが、風花の耳にはもうその声は届いていなかった。いや、聞こえてはいたが、意味のある言葉ではなく、単なる音の羅列にしか聞こえていなかった。
   「……聞いてるのか、おい」
 純平の声はもう聴こえない、風花は再びあの確認行為とそれがもたらす感覚に溺れ始めていた。

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