知らぬ者の幸福と知る者の嘆き 2 病棟の回診で風花の病室の前を通る度、純平はノックして彼女を訪ねたい衝動に駆られていた。だが、それが許されるはずもないことを、純平自身、よく理解っていた。しかしながら、素通り出来るはずもなく、こうしてしばらく佇むことが多かった。 「……何をしてるの? 」 不意に肩を叩かれて純平が振り向くと、小夜子が少し怪訝そうな表情を浮かべていた。きっと、何か用事があって、今から風花の病室に行くところだったのだろう。小夜子の右手には近所にある、手芸店の紙袋が下げられていた。 「いや、あの……風花の具合、どうかなって。ほ、ほら、体調がまだ万全じゃねーから」 別に今の行為を咎められたわけでもないのに、純平はまるで言い訳のように母親にそう説明した。すると、小夜子はそんな息子の説明に微笑を浮かべた穏やかな口調でこう返した。 「貴方にそんな心配をする資格はないでしょ……あんなことをしておいて、今更――」 母親のそんな言葉に純平は思わずくっと唇を噛んだ。そんなこと、言われなくても理解っている。あんなことをしておいて、今更になって白々しい、資格がないだのと詰られるのは当たり前だろう。しかし、それでもやはり風花のことが気になる。しかし、それを言葉にしたところで、今までの行為を全て帳消しにする免罪符にはならない、いや、それはしてはいけないのだ。それが理解っていたからこそ、純平はただ黙り込むしかなかったのだ。そして、ちらりと小夜子の右手に視線を向けるしかなかった。 「これ? 風花ちゃんにね、刺繍を頼んだのよ。その材料」 黙り込んだ息子の視線に小夜子は相変わらずおっとりとした口調でそう説明を始めた。この病院の小児病棟には長い間入院している子どもも多い。日々、病気と闘っている子どもたちが普段の辛い入院生活の中で少しでも気を紛らわせられたらと、彼らの使うタオル等に人気のキャラクターたちをあしらった刺繍をしてはどうかという意見が出たのだという。そこで、昔から裁縫が得意だった風花に頼んで、市販のタオルに少しずつ刺繍をして貰うことにしたらしい。 「ふ、風花はいいって、言ったのか? 」 「ええ、私で良ければって……ああ、ちゃんと風花ちゃんの体調と相談しながらやるから」 「そ、そうじゃなくて……裁縫道具ってか、針とかハサミとか、持たせても――」 「ああ、そっちの心配ね……大丈夫、そんなこと、風花ちゃんがするわけないじゃない」 「わ、分からないだろ、そんなこと……だ、第一、アイツは――」 純平の脳裏にあの晩に見た、風花の細い腕に幾筋も走っていた傷跡がちらついた。そして、ぐったりと地下室で横たわっていた姿が目の前で今起こっている出来事のように鮮明に蘇っていく。風花はあの晩、自分の全てにピリオドを打とうとした。そして、それが阻止された今でもチャンスを伺っている節がある。だからこそ、風花にはまだ刃物を持たせてはいけないのだと、純平は母親に必死で訴えた。しかし、小夜子は純平の言葉に耳を貸そうとはしなかった。そして、なおも食い下がろうとする純平に対し、やはり穏やかな口調で静かに止めを刺した。 「風花ちゃんにそうさせたのは……貴方自身じゃないの」 |