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第2章

知らぬ者の幸福と知る者の嘆き 1

 賭けに負けたあの日以降、純平は病室に来なくなった。きっと、もう自分を説得するための言葉や方法が見つからないと判断したからだろうと、風花は大して気にもせず日々を過ごしていた。じりじりと照りつける真夏の日差しが病室の窓硝子越しに、引かれたカーテンを輝かせている。
   「……夏、なんだ」
 どこかで蝉の鳴く声が耳障りなほど聞こえている。中庭で鳴いているのか、それとも病院の外で鳴いているのかは分からない。ただ、そうやって鳴くことで短い命を必死に生きようとしているのだけは分かる。風花がぼんやりとそんな小さな命の叫びに耳を傾けていると、不意に病室のドアを誰かがノックした。
   「風花ちゃん、ちょっといいかしら? 」
 義母の小夜子だった。小夜子は純平の母、つまり風花の姑である。本来ならば、小夜子も風花が関わりたくない人間の一人なのだが、そうもいかない事情があった。何故なら、小夜子は姑であると同時に、5歳で両親を喪った風花を育ててくれた養母でもあったからだ。
  「……はい」
 風花が小さく返事をすると、小児病棟の回診後なのだろう、小夜子は薄桃色の白衣をはためかせて病室に入って来た。何かと不安になりがちな子どもとその保護者たちを安心させる小児科医という普段からの立場がそうさせるのかもしれないが、小夜子は酷く穏やかな微笑を口元に浮かべていた。
   「……身体の具合はどう? 」
 小夜子はベッドの傍らにある折りたたみ式のイスに座り、そう問うた。きっと幼児を診た後なのだろう、小夜子からは微かに甘いミルクの香りがした。一瞬、風花はその香りに眉を顰めた。だが、それを気取られぬように、貼りつけたような微笑を浮かべて、明るくこう答えた。
   「特には問題、ありません」
   「そうなの? その、純平からね、色々とまだ身体の調子、良くないって聞いてたから」
 本当は風花の身体の具合など、純平や看護師、カルテを通じて知っているのだろう。だが、それを小夜子があえて問うのは、自分に何かしらの用があるからだと、風花は理解っていた。
   「訊きにくいんだけど……その、気持ちの方はどうなの? その、やっぱりまだ――」
 ああ、やっぱりその質問なのだと風花は内心ふっと溜息をついた。小夜子が何故言葉を濁したのか、それは多分、それを風花にはっきり肯定されることへの、無意識な恐れのせいだろう。ここで肯定してしまうのは簡単だった。だが、肯定することでただでさえ不自由な今の生活が更に不自由になってしまうのは後々困るだろう、そうした気持ちがまだあるのは事実なのだから尚更である。だからこそ、今はそうでないという演技をすべきなのだと、風花は思った。
   「……まさか。ただ、もう、その――」
 純平とはもう暮らしていけない、出来れば離婚をしたいというニュアンスを含めながらも、風花はもうそんなつもりはない、大丈夫なのだと小夜子に説明した。だが、それがいけなかった。
   「なら、良かったわ……近いうちにね、私の手伝いをして貰えないかしら? 」

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