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第1章

饒舌と沈黙 3

  雨に濡れることが風花には酷く心地よかった。これまでの生活ですっかり汚れきってしまった身体を綺麗に洗い清めてくれるようなそんな気がしたからだ。いや、このまま降りしきる雨に溶けてしまいたいと思っていたのかも知れない。
  「……風邪、ひくぞ」
 不意に差し掛けられた傘と耳障りな純平の声に風花は顔を上げようとはしなかった。雨が傘に遮られてボツボツというくぐもった音を立てる。
  「風花」
 風花が顔を上げないことに痺れを切らしたのか、不意に純平が腕を掴んできた。無理矢理にでも立ち上がらせて病室へと連れ戻すつもりらしい。これ以上抵抗するのは無駄だと思い、風花は全身の力をすぅっと抜いた。そして、風花は純平によって立ち上がらされ、ふっと頭からふんわりと柔らかい香りのするタオルがかけられた。純平はまるで別人のような穏やかで優しい声でこう訊いて来た。
  「そんなに、紫陽花、観たかったのか? 」
  「…………」
 風花は沈黙した。実際、何も答えようとは思わなかった。別に紫陽花を観たかったわけじゃない。雨の中でただ濡れたかっただけだった。
  「……風邪ひいて肺炎なんか起こしたら、一溜まりもねーだろ」
 あの地下室の生活の中で何度もそうなりかけたのだから、今更そんなことは怖くないと答えたら、純平はどんな顔をするのだろうと風花はふと思った。暗闇の世界で高熱に冒され、いつ訪れるとも知れない命の終焉を待ち望む時間の長さはそれを経験した者にしか理解出来ないだろう。
  「風花……聴いてるか? 」
 純平に引きずられるように、病室までの長い廊下を歩く。すれ違う看護師や患者、そして入院している家族や知り合いの面会に来たらしい人々の好奇の視線が風花に突き刺さる。まるで枯れた枝のようにやせ細った身体の風花が頭にタオルをかけられ、白衣の純平に引きずられて行く。しかも、風花の髪や服からはぽたりぽたりと雫が絶え間なくしたたり落ちていくのだから、興味を引かない方がおかしいだろう。
  「あのひと……ユーレイみたい」
 母親に手を引かれた子供があどけない口調でそう呟くのを聴いて、風花は微かに微笑し、純平はぎろりと睨み付けた。そして、子供はすぐにその母親に口を塞がれ、まるで逃げるようにその場を去った。それを確認した後、純平は吐き捨てるようにこう呻いた。
  「……失礼なガキだな」
  「…………」
  「俺らに子供が出来たら、絶対にあんなこと、言わせないようにしような」
 純平がそう言ったことに対し、風花は心の中で酷く冷たい、醒めた口調でこう呻いていた。
  「何も知らないって……本当に幸せなことだわね。ええ、本当に幸せな頭してるわね、あなた」

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