第1章

饒舌と沈黙 2

   いつの間にか季節は春から夏へと移り変わりつつあることを告げる、梅雨の時期を迎えていた。毎日のように飽きもせず降る雨、それでなくても雨が降らずとも梅雨特有の湿気の高いじとじとした空気がねっとりと肌を覆うのを嫌ってか、中庭に咲き誇る紫陽花を近くで愛でる者は誰もいない。
  「あんなに綺麗に咲いてるのに、誰からも側で見て貰えないなんて、何だか勿体ないわねぇ」
   診察を終えた老婦人が診察室の窓から見える紫陽花をちらりと見た後、酷く残念そうにそう呟いた。老婦人の言い分としては、中庭の紫陽花をただ散っていかせるより、希望する外来患者に枝を切って分けろとでもいうところだろう。歳を取ると女は更に図々しいもんだと内心で純平は毒を吐きながらも、老婦人の言葉にすっと目を細め、微苦笑混じりにこう答えた。
  「まぁ……でも、紫陽花の立場から見れば、あのまま咲いている方が幸せでしょうに」
  「『やはり庭におけ紫陽花』ってとこかしら? でも、本当に勿体ない」
  「はは、上手いなぁ……さぁ、戸田さん、次は来週の火曜日に来て下さいね」
  「はいはい、どうせ私の仕事は病院に行くことしかないんだから」
  また同居してる息子の嫁とやらに「お義母さんは病院に行かれるのにお忙しいのね」とでも嫌味を言われたのであろう、その愚痴を聞かされる前に、結局ただ頷くしかない無駄な時間を過ごさざる得なくなる前に、純平は老婦人に早急にご退室願いたかった。そのため、自分の側に控えていた外来の看護師長のフクザワに目配せをすると、彼女は心得たと言わんばかりに小さく頷き、老婦人に寄ると、にこやかな笑顔で有無を言わさず立たせ、部屋を出て行った。
  「……相変わらず、あのひと、五月蠅いババアね」
  老婦人とフクザワが出て行ったのを確かめた後、菜穂がその白衣の制服に似合わぬような表情を浮かべ、カーテンの陰から出て来た。
  「どうした? まだ、仕事中だ」
  冷たくそう言い放つ純平の背中に菜穂はすっとその柔らかな身体を猫のように擦りつけ、甘く鼻を鳴らす。だが、そんな仕草をすると普段は少し困ったような微笑を浮かべ、喉を撫でるようにその頬に優しく触れるのだが、この日ばかりは違った。あの夜以来、純平の自分に向けられる視線の種類が少しずつ微妙に変化しつつあるのを菜穂だって気づかぬわけがない。だが、だからと言って、将来の院長夫人の座をみすみす手放すつもりなどなかったのである。
  「菜穂……お前、どういうつもりだ? 」
  「どういうつもりって……貴方こそ、どうしちゃったのよ」
  「……別に」
  「まさか……私と別れようなんて、思ってないわよね? 第一、肝心の奥さんがあれじゃぁね」
  菜穂は酷く嫌な感じを持った響きの言葉をそう吐き捨てると、窓の外にその視線を向けた。それを追った、純平の目に映ったもの。
  「風花……」
  それは傘も差さず、びしょ濡れになったままで中庭の紫陽花を愛でている、妻の姿だった。


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