―わたしはうたいつづけましょう なによりいとしくて たいせつなあなたのために―
チコはぶ厚い緞帳が上がると同時にいつものように、そんな美しい旋律を奏で始めた。彼女がステージに立つようになって随分経つが、いつも客は同じでたった一人しかいない。チコはその常連客をよく知っている、青山 義明というこの近所に住んでいる二十五歳の男だ。義明はいつもチコの紡いでいる旋律をうっとりと目を閉じながら、幸せそうに聴いている。彼にとって自分の歌がそんな癒しであることが、チコにとっては歌姫としての誇りだった。
―わたしはうたいつづけましょう あなたがわたしをひつようとしなくなるときまで―
最後のフレーズを歌い終えて、チコは今日もちょこんとたった一人の客にお辞儀をする。
「チコ……今日もとても素敵な声だったね」
義明は今日もステージの上のチコに優しい微笑みを投げかけながら、彼女にそう言った。
「いいえ……私はあなたの為に歌っているのですから」
義明にそう微笑まれる度、チコは心の中でほんのり頬を染めながら、ぽそりとそう呟いた。だが、それは決して義明には聞こえることのない、切ない愛の密かな告白であった。
そう、チコは義明に恋をしていた、彼女がこのステージに立ち始めた頃からずうっと―。
だが、「歌姫」という立場柄、チコは義明にその想いを告げることを躊躇い続けていた。
「想いを告げるか……告げられるほど近い存在じゃないわ」
早く告白しろとバックバンドの連中からせっつかれる度、チコは寂しそうにそう答えた。あくまで義明とチコの関係は観客と歌姫であり、それ以上のことはお互いに何も知らない。言ってしまえば、互いに何も知らないこの二人の接点は観客と歌姫、ただそれだけなのだ。チコは痛いほどそれがよく理解っていたからこそ、義明に想いを告げようとはしなかった。
「ねぇ、チコ……君は彼が本当に好きなんだね」
普段は寝てばかりいる劇場の支配人はチコが義明の前で歌う度、優しい声でそう囁いた。
「ええ、好きよ……でも、彼には内緒よ」
そんな囁きにチコはいつも艶やかな笑みをうっすらと口元に浮かべて、その首をかしげた。しかし、そんな会話を繰り返す度、いつも支配人は少し悲しげな目をしてチコを見つめた。
「可愛いチコ……でも、いくらお前が彼を好きでも―」
支配人はいつもそこまでしか言わなかったが、チコは彼が言わんとした事を理解していた。
「理解ってるのよ、ちゃんと……」
この経験豊富な支配人は諭しているのだ、観客と歌姫の恋は決して上手くいかないのだと。
チコの前にこの劇場で歌っていた、フェリスという歌姫の観客への恋も儚く散っていった。
その観客が訪れる度、フェリスはまるで血を吐かんばかりに声を張り上げて歌っていた。そして、観客、彼はフェリスの命の叫びとも聞こえる歌に耳を傾け、その美声を賛美した。
その賛美を聞く度、フェリスは圧し掛かる疲れさえ忘れて、この上ない幸せを感じていた。だが、そのフェリスのこの上ない幸せはある日、唐突に、悲しい現実に打ち砕かれた。その日も、普段と同じように、彼は命を削るようなフェリスの美声を聴きに劇場を訪れた。だが、普段と唯一違っていたのは……彼が劇場に若い女を同伴していたことだけだった。
愛しい想い人の隣に寄り添うようにしている、その若い女にフェリスは酷く動揺した。それでも、フェリスは普段のように、いや普段のそれよりも、素晴らしい美声を披露した。全てを知っていた劇場の支配人はそんなフェリスの痛々しい姿に哀しげな微笑を浮かべた。歌姫としてのフェリスのプライド、それが今にも壊れそうな彼女のステージを支えていた。
痛々しいほどの魂の叫びを終え、フェリスは平静を装ったまま、観客たちにお辞儀をした。だが、彼は若い女に何かを囁きかけているだけで、フェリスの方を見ようともしなかった。そのことがフェリスの精神にどれほどの多大なダメージを与えたのか、想像に難くない。
しかし、フェリスは劇場の舞台の上で失恋の哀しみによる涙を一粒たりとも流さなかった。その代わりにとでもいうように、緞帳が下りていく中、寂しげな微笑を浮かべただけだ。
だが、それを向けられた男はそんな事に全く気づきもせず、相変わらず女に囁いていた。それをフェリスが気づいていたかどうかは知らない、いや、きっと気づいていたのだろう。
「大丈夫かい? 」
バックバンドの連中は緞帳が完全に下りた後の舞台でフェリスが大泣きすると思っていた。だが、そんな予想をまるで嘲笑うかのように、フェリスはただ相変わらず微笑していた。誰がどれほど優しい声で慰めの言葉をかけようと、視線を向けようと、微笑し続けていた。
「フェリス? 」
劇場で一番仲の良かった踊り子のリタが心配そうに顔を覗きこむが、反応は全くなかった。まるでよく出来た人形のように微笑し続ける歌姫を心配し、劇場の面々は顔を見合わせた。その瞬間、今までで一番美しい旋律がフェリスの唇から静かに、ゆっくりと紡がれ始めた。
それは美しくもありながらも、どこかもの悲しさを感じさせる、悲しい恋の旋律であった。そして、その悲しい旋律を歌い上げた直後、歌姫は力が抜けたように舞台に座り込んだ。
「フェリス? 」
その場にいた者たちは皆、そんな歌姫の姿に何か不吉なものを感じ、思わず駆け寄った。だが、既にフェリスの細い身体からは生きものが持つ、あの温もりが失われつつあった。
「フェリス!? 」
そのまま、フェリスと呼ばれた歌姫は美しい旋律を別れの言葉に換え、静かに息絶えた。
そして、それまで前座で歌っていたチコが歌姫として、ステージに立つようになったのだ。
「苦しいことなのよ……歌姫であることは―。でも、だからこそ恋をするのよ」
チコはまるで自分に言い聞かせるようにそう呟き、明日のステージに備えて歌いだした。
―わたしはわたし あなたはあなた かなわなくたって わたしはあなたをおもうの―
籠の中で黄色い小さな身体を必死で震わせて歌う小鳥を見つめて、老いた店主は呻いた。
「理解っておらんよ、チコ……アイツは人間、お前さんは―」
だが、そんな店主の呟きは耳に入らなかったのだろう、チコは相変わらず歌い続けていた。
―わたしはうたいつづけましょう あなたがこのうた ひつようとしなくなるまで―