「バカみたい……まさか本気でやるなんて―」
別れの言葉の代わりにドアの前に置かれたスイートピーの花束が視界に入り、あたしは苦笑した。スイートピーの花言葉は別離……そして、それはあたしにとって長い恋の終わりを意味していた。
「別れる時にはさよならは言わない……その代わり、ドアの前にスイートピーを置いておく」
そう言って少し寂しげな微笑を浮かべていた男の顔が不意に思い浮かび、じんわりと景色が歪む。こんな別れの日がいつかは訪れると最初から理解ってたくせに、何故、涙が零れるのだろう? 帰る場所がある、待つ家族がいる男を好きになった時から、とっくに覚悟は出来ていたはずだ。それなのに、こうして突きつけられた現実を目の前にして、涙を零している自分が酷く情けない。
「……部屋、入ろ」
さすがにドアの前に放置したままで部屋に入るのも忍びなくて、ふっと花束を持ち上げてみた。その瞬間、微かに花束の包装紙に残っていた、嗅ぎ慣れたコロンの香りがふっと鼻をくすぐった。あの男はこの花束をこのドアの前に置くまで、ひどく大事そうに抱えていたのかもしれない。
「君の事は好きだよ……だけど、僕には守らなきゃならないものがたくさんあるんだ」
あたしが未来の約束を欲しがる度、男は少し困ったような表情を浮かべてそう釘を刺していた。
「ん……わかってる。ただ、言ってみただけよ。気にしないで―」
そうやって釘を刺される度、あたしは悪戯を咎められた時みたいな、きまりの悪い思いをしてた。いくら頭の中では絶対有り得ないと理解っていたくせに、あたしの心は男との未来を夢見ていた。そしてそう釘を刺す男もあたしと一緒にいる時だけは、あたしとの未来を夢見ているようだった。だけど、その幸せを手に入れる代償はあまりにも大き過ぎて、あたしも男も踏み切れなかった。
「……やってられないわよ!」
フローリングの床に花束を乱暴に投げ捨てて、ベッドに身体を投げ出して思い切り叫んでみる。別れの言葉の代わりにスイートピーの花束を置いていくなんて、なんて残酷過ぎる男だろう? はっきりした別れの言葉を告げられた方があたしだって諦めがつくのに、これじゃ諦め切れない。
「ねぇ、どうして……どうして、直接あたしに別れを告げないわけ?」
男がスイートピーで別れを告げると言った時、あたしは彼に半ば冗談交じりの口調でそう訊ねた。
「それは……君の顔を見たら、きっと別れられなくなるから―」
あの頃のあたしはそれがあの男なりのあたしへの想いの示し方、優しさだと固く信じ切っていた。だけど、それはいつまでも抜けない棘をあたしの心に残すだけの、残酷な優しさに過ぎなかった。
あたしがすっと天井に向かって左手をかざすと、薬指にある指輪が月明かりを浴びて鈍く光った。それは付き合い始めたばかりの頃、あたしの誕生日プレゼントに男からもらったものだった。
「ねぇ、これってもしかして……婚約指輪?」
ビロード張りの小箱を開けてはしゃいでたあたしの姿を見て、男はひどく嬉しそうに笑っていた。あの頃のあたしはまだ男が家庭を持っていることなんて全く知らなかったし、思いもしなかった。だからこそ、もらった指輪=婚約指輪なんて安易な想像、今思えば幸せな想像が出来たんだろう。
「……何か女々し過ぎよね、こんなもの見て、思い出に浸ってる自体―」
そんな事をぼやきながら、あたしはすっと薬指から指輪を抜き取って、しげしげと眺めだした。周囲に関係を知られてはいけないと、自分のイニシャルもあたしのそれも指輪に入れなかった。
「最初から……あたしを捨てるつもり、だったのよね、多分―」
月明かりを浴びて鈍く光っている指輪はどこにでもあるようなデザインで、本当の安物だった。きっとその辺の露天商から買ったものを、最近100均で売ってるビロードの小箱に入れたのだ。あの時、初めて男から貰ったプレゼントに浮かれ切っていたあたしは冷静な判断力を失っていた。だからこそ、今になってこんな痛い思いをする事になったんだと不意に可笑しくなってしまう。これはいい教訓だ……どんなに好きな男から貰ったものであれ、価値を冷静に判断すべきなのだ。そんな事を考えているうちに段々と腹が立ったあたしは、思わず床に指輪を投げ捨てようとした。
しかし、思えばこの指輪だけが今のあたしに残された、男との数少ない、形ある思い出だった。そう思うと指輪を床に投げ捨てようとした気持ちが抜けかけの歯のように、もどかしく揺らいだ。
「っ……」
天井に取り付けられている照明のランプシェードの輪郭が段々じんわり歪んでいくのが見える。
「情けないよ……最初、から、分かって、た、事、じゃ、ない―」
強がってぼやいたはずのそんな言葉も気がつけば嗚咽交じりで、途切れ途切れになってしまう。こんな時に1人で過ごしているから辛くなると分かっていても、今さら誰と過ごせるだろう?
「そりゃ辛いだろうけど……妻子持ちと付き合ってたんだから、覚悟はあったんでしょ?」
今までこの恋をひたすら隠してきた友達に事情を話したって、きっとこう言われるのがオチだ。覚悟はしていたけど、やっぱり辛いと答えたら、きっと彼女は困ったような表情をするんだろう。それが理解っているからこそ、あたしは友達を頼れなくて、こうして1人で泣くしかないのだ。
*
それからどれくらいの時間泣いたのかは分からないが、いつの間にかあたしは冷静になっていた。今まであたしはこの薄暗い部屋で1人、男を想って泣いていたけど、彼はどうだったんだろう? 不意にそんな事を考え、あたしは先々週のデートで男と交わした会話をふっと脳裏に蘇らせた。
「実はさ……今月の24日、娘の5歳の誕生日なんだよ」
「へぇ……」
「で、今からプレゼントに何を贈ろうか考えていてね……何がいいと思う?」
浮気相手のあたしに気を使っていたのか、男はデートの時には絶対に家庭の話をしない人だった。それなのに、その日はすごく嬉しそうな表情でそう話していた事がずっと引っかかっていた。多分、もうあの時にはあたしと別れて、家庭に戻る事を男は薄々決めていたのかもしれない。壁にかかったカレンダーが今日は24日と告げている……今頃、男は愛娘の誕生日を祝っている。男の奥さんはきっと張り切ってご馳走なんか作ってて、彼だってきっと愛娘にでれでれしている。別れた女が薄暗い部屋で1人でこんな風に女々しく泣いてたなんて想像もしていないんだろう。
「……不公平よね」
自分の唇から不意に漏れたそんな言葉がすっかり湿っぽくなったあたしの意識を一気に乾かす。そうだ、あたしはこんなに泣いているのに、男は幸せに浸ってるだなんて不公平にも程がある。あの男も今のあたしのように泣けばいいのだ、苦しめばいいのだ、自己嫌悪に陥ればいいのだ。しかし、その行動を取ることによって、男の家族を苦しめるつもりはあたしには毛頭ない。あたしが苦しめたいのは、自分をこんな形で捨てた男だけで、その家族には何の罪もないから。男の家族を少しも傷付けることなく、彼が浸っている幸せだけを壊す方法はないだろうか? しばらくその方法を真剣に考えていたが、不意にそんな事を考えている自分に腹が立ってきた。第一、男に家庭があると知った時点であたしは彼とどんな痛手を負っても別れるべきだったのだ。だが、それをしなかったのは、男との関係をそれでも続けたのは、他ならぬあたし自身だった。それに男の家族を傷付けたくないなんて言ってるけど、そんなの最初から傷付けてるじゃない。やっぱり、あたしは勝手な生き物だった……さっきまで自分の事を棚に上げて男を呪っていた。所詮、あたしとあの男は多少の立場の差異はあっても、同じ穴のムジナに過ぎなかったんだ。
「……同属嫌悪?」
あたしは男を憎む自分の気持ちを上手く表した言葉を捜して、ぽつりとそんな単語を呟いた。家庭がありながらあたしと関係を持ったくせ、それに飽きてあたしを捨てた男は本当に卑劣だ。だけど、男に家庭があると知りながらも捨てられるまで関係を続けたあたしだって同じなんだ。
「あはは、はははっ、あはははは―」
そうだ、あたしも男と同じように卑怯者なんだ、卑怯だからこそ、自分と同じ彼を呪ってるんだ。そう考えると、まるで傷のついたCDを再生しているみたいに、そんな笑いが止まらなくなった。今、あたしが笑っているのは結局家庭を捨て切れなくて、あたしを捨てた愚かなあの男の卑怯さ。
今、あたしが笑っているのはそんな男から捨てられた事を嘆く、悲劇のヒロイン気取りの自分。
「あー、あんな奴の事、呪ってたって……救われないよねぇ」
思い切り泣いたせいだろうか、不意にあたしの頭の中でぱっと思考がそんな風に切り替わった。我ながら切り替えの早い性格というか、妙にそこが男らしく思えて、ぷっと吹き出してしまう。
「そういえば……明日、どんな顔して顔合わせればいいんだろ?」
会社でのあたしと男の関係は仲のいい同期で、男女の関係を超えたものだと周囲は見ていた。だから、多少男がドジを踏んであたしとの関係を匂わせても、悪い冗談としか思われなかった。恋愛中は支障がなかったあたしと男の元々の関係が、関係が壊れた途端、ずっしりと重くなる。
「まさか、いきなり余所余所しく振舞うのもなぁ……かといって、馴れ馴れしいもの―」
まぁ、自業自得なのだが、もう終わった恋愛で評判を落とすのはあたしとしては好ましくない。俗に言う、結婚適齢期というものをとっくに通り過ぎたあたし、今はそれなりの地位もある。人目を忍んで育てた長年の恋を失った上に、今まで築き上げた今の地位を失くすなんて、嫌だ。あたしは肩をすくめ、さっき投げ捨てたハンドバックから、自分の名刺を取り出し、読み上げる。
「K製菓株式会社、販売促進部部長、小阪 亜紀……ここまで来るのに、長かったものねぇ」
同期の友人が次々と寿退社していく中、上司の嫌味に耐えて、ここまであたしは登りつめた。同期の中で一番先に課長に抜擢された時、男たちからは「上役と寝たんだ」と陰口を叩かれた。だから、あたしはそんな腐った男たちになんか負けるもんかと半ば意地になって頑張ってきた。そして、いつの間にか陰口を叩いてた男たちはみな名前も知らない子会社へと出向していった。というよりも、あたしが彼らのミスを機会に、次々と人員削減の名目で切り捨てていったのだ。そんなあたしが実は男に捨てられたなんて知られた日には、もう笑い者にしかならないだろう。
*
「……お、おはようございます」
翌朝、あたしがオフィスに入ってくると、あの男が一瞬気まずそうな表情でそう挨拶してきた。そんなに気まずそうな表情を浮かべるなら、挨拶なんかしなくてもいいのだとあたしは思った。
「部長、おはようございます……あら、その花、どうされたんですか?」
お茶を運んできた女性社員があたしの持っている、スイートピーの花束に気付いて、訊ねてくる。そう、その花束はさっきから気まずそうにこっちを見ている男から昨夜贈られた、あの花束だ。
「ああ、貰いものなの……けど、一人で楽しむのも何だから、ここに飾ろうと思って」
「そうなんですか……確か、この花って―」
「スイートピーよ」
「へぇ……私、本物を見たのは初めてなんですよ。歌はよく歌うけど―」
女性社員は愛想良く笑いながら、まじまじとスイートピーの花束を見つめ、そんな事を言った。
「そうね、あなたのカラオケでの十八番だものね……ねぇ、この花の花言葉、知ってる?」
「え?いえ……実は知らないんですよ―」
屈託なくそう言って照れ笑いする女性社員に教えるフリをして、あたしは満面の笑みで答える。
「スイートピーの花言葉はね……別離、門出って言うのよ。異動する人に贈るのに最適でしょ?」
「そうなんですかぁ……え?どなたか異動、されるんですか?」
きょとんとあたしを見つめる女性社員越しに、男の表情が一瞬にして凍りつくのが見えた。そう、あたしたちの関係は終わった……だから、あたしがあの男のミスを見逃す必要ももうない。
「まぁ……正式な辞令が出るまでは内緒よ、正式な辞令がね―」
「そうなんですか……」
間抜けな声でそう呟く女性社員に苦笑しながら、あたしは彼女の入れてくれたお茶を手に取った。あの男があたしに直接別れを言わなかったように、あたしも彼に対して直接さよならは言わない。あの男があたしの心に鈍い棘を残して去ったから、あたしはそれ以上の棘を彼の心に与える。
「んー、美味しっ……さてと、今日も頑張るか」
オフィスの窓に映る、あたしの顔は今までにないほど、酷く優しく、そして幸せな顔をしていた。
別れの言葉の代わりにドアの前に置かれたスイートピーの花束が視界に入り、あたしは苦笑した。スイートピーの花言葉は別離……そして、それはあたしにとって長い恋の終わりを意味していた。
「別れる時にはさよならは言わない……その代わり、ドアの前にスイートピーを置いておく」
そう言って少し寂しげな微笑を浮かべていた男の顔が不意に思い浮かび、じんわりと景色が歪む。こんな別れの日がいつかは訪れると最初から理解ってたくせに、何故、涙が零れるのだろう? 帰る場所がある、待つ家族がいる男を好きになった時から、とっくに覚悟は出来ていたはずだ。それなのに、こうして突きつけられた現実を目の前にして、涙を零している自分が酷く情けない。
「……部屋、入ろ」
さすがにドアの前に放置したままで部屋に入るのも忍びなくて、ふっと花束を持ち上げてみた。その瞬間、微かに花束の包装紙に残っていた、嗅ぎ慣れたコロンの香りがふっと鼻をくすぐった。あの男はこの花束をこのドアの前に置くまで、ひどく大事そうに抱えていたのかもしれない。
「君の事は好きだよ……だけど、僕には守らなきゃならないものがたくさんあるんだ」
あたしが未来の約束を欲しがる度、男は少し困ったような表情を浮かべてそう釘を刺していた。
「ん……わかってる。ただ、言ってみただけよ。気にしないで―」
そうやって釘を刺される度、あたしは悪戯を咎められた時みたいな、きまりの悪い思いをしてた。いくら頭の中では絶対有り得ないと理解っていたくせに、あたしの心は男との未来を夢見ていた。そしてそう釘を刺す男もあたしと一緒にいる時だけは、あたしとの未来を夢見ているようだった。だけど、その幸せを手に入れる代償はあまりにも大き過ぎて、あたしも男も踏み切れなかった。
「……やってられないわよ!」
フローリングの床に花束を乱暴に投げ捨てて、ベッドに身体を投げ出して思い切り叫んでみる。別れの言葉の代わりにスイートピーの花束を置いていくなんて、なんて残酷過ぎる男だろう? はっきりした別れの言葉を告げられた方があたしだって諦めがつくのに、これじゃ諦め切れない。
「ねぇ、どうして……どうして、直接あたしに別れを告げないわけ?」
男がスイートピーで別れを告げると言った時、あたしは彼に半ば冗談交じりの口調でそう訊ねた。
「それは……君の顔を見たら、きっと別れられなくなるから―」
あの頃のあたしはそれがあの男なりのあたしへの想いの示し方、優しさだと固く信じ切っていた。だけど、それはいつまでも抜けない棘をあたしの心に残すだけの、残酷な優しさに過ぎなかった。
あたしがすっと天井に向かって左手をかざすと、薬指にある指輪が月明かりを浴びて鈍く光った。それは付き合い始めたばかりの頃、あたしの誕生日プレゼントに男からもらったものだった。
「ねぇ、これってもしかして……婚約指輪?」
ビロード張りの小箱を開けてはしゃいでたあたしの姿を見て、男はひどく嬉しそうに笑っていた。あの頃のあたしはまだ男が家庭を持っていることなんて全く知らなかったし、思いもしなかった。だからこそ、もらった指輪=婚約指輪なんて安易な想像、今思えば幸せな想像が出来たんだろう。
「……何か女々し過ぎよね、こんなもの見て、思い出に浸ってる自体―」
そんな事をぼやきながら、あたしはすっと薬指から指輪を抜き取って、しげしげと眺めだした。周囲に関係を知られてはいけないと、自分のイニシャルもあたしのそれも指輪に入れなかった。
「最初から……あたしを捨てるつもり、だったのよね、多分―」
月明かりを浴びて鈍く光っている指輪はどこにでもあるようなデザインで、本当の安物だった。きっとその辺の露天商から買ったものを、最近100均で売ってるビロードの小箱に入れたのだ。あの時、初めて男から貰ったプレゼントに浮かれ切っていたあたしは冷静な判断力を失っていた。だからこそ、今になってこんな痛い思いをする事になったんだと不意に可笑しくなってしまう。これはいい教訓だ……どんなに好きな男から貰ったものであれ、価値を冷静に判断すべきなのだ。そんな事を考えているうちに段々と腹が立ったあたしは、思わず床に指輪を投げ捨てようとした。
しかし、思えばこの指輪だけが今のあたしに残された、男との数少ない、形ある思い出だった。そう思うと指輪を床に投げ捨てようとした気持ちが抜けかけの歯のように、もどかしく揺らいだ。
「っ……」
天井に取り付けられている照明のランプシェードの輪郭が段々じんわり歪んでいくのが見える。
「情けないよ……最初、から、分かって、た、事、じゃ、ない―」
強がってぼやいたはずのそんな言葉も気がつけば嗚咽交じりで、途切れ途切れになってしまう。こんな時に1人で過ごしているから辛くなると分かっていても、今さら誰と過ごせるだろう?
「そりゃ辛いだろうけど……妻子持ちと付き合ってたんだから、覚悟はあったんでしょ?」
今までこの恋をひたすら隠してきた友達に事情を話したって、きっとこう言われるのがオチだ。覚悟はしていたけど、やっぱり辛いと答えたら、きっと彼女は困ったような表情をするんだろう。それが理解っているからこそ、あたしは友達を頼れなくて、こうして1人で泣くしかないのだ。
それからどれくらいの時間泣いたのかは分からないが、いつの間にかあたしは冷静になっていた。今まであたしはこの薄暗い部屋で1人、男を想って泣いていたけど、彼はどうだったんだろう? 不意にそんな事を考え、あたしは先々週のデートで男と交わした会話をふっと脳裏に蘇らせた。
「実はさ……今月の24日、娘の5歳の誕生日なんだよ」
「へぇ……」
「で、今からプレゼントに何を贈ろうか考えていてね……何がいいと思う?」
浮気相手のあたしに気を使っていたのか、男はデートの時には絶対に家庭の話をしない人だった。それなのに、その日はすごく嬉しそうな表情でそう話していた事がずっと引っかかっていた。多分、もうあの時にはあたしと別れて、家庭に戻る事を男は薄々決めていたのかもしれない。壁にかかったカレンダーが今日は24日と告げている……今頃、男は愛娘の誕生日を祝っている。男の奥さんはきっと張り切ってご馳走なんか作ってて、彼だってきっと愛娘にでれでれしている。別れた女が薄暗い部屋で1人でこんな風に女々しく泣いてたなんて想像もしていないんだろう。
「……不公平よね」
自分の唇から不意に漏れたそんな言葉がすっかり湿っぽくなったあたしの意識を一気に乾かす。そうだ、あたしはこんなに泣いているのに、男は幸せに浸ってるだなんて不公平にも程がある。あの男も今のあたしのように泣けばいいのだ、苦しめばいいのだ、自己嫌悪に陥ればいいのだ。しかし、その行動を取ることによって、男の家族を苦しめるつもりはあたしには毛頭ない。あたしが苦しめたいのは、自分をこんな形で捨てた男だけで、その家族には何の罪もないから。男の家族を少しも傷付けることなく、彼が浸っている幸せだけを壊す方法はないだろうか? しばらくその方法を真剣に考えていたが、不意にそんな事を考えている自分に腹が立ってきた。第一、男に家庭があると知った時点であたしは彼とどんな痛手を負っても別れるべきだったのだ。だが、それをしなかったのは、男との関係をそれでも続けたのは、他ならぬあたし自身だった。それに男の家族を傷付けたくないなんて言ってるけど、そんなの最初から傷付けてるじゃない。やっぱり、あたしは勝手な生き物だった……さっきまで自分の事を棚に上げて男を呪っていた。所詮、あたしとあの男は多少の立場の差異はあっても、同じ穴のムジナに過ぎなかったんだ。
「……同属嫌悪?」
あたしは男を憎む自分の気持ちを上手く表した言葉を捜して、ぽつりとそんな単語を呟いた。家庭がありながらあたしと関係を持ったくせ、それに飽きてあたしを捨てた男は本当に卑劣だ。だけど、男に家庭があると知りながらも捨てられるまで関係を続けたあたしだって同じなんだ。
「あはは、はははっ、あはははは―」
そうだ、あたしも男と同じように卑怯者なんだ、卑怯だからこそ、自分と同じ彼を呪ってるんだ。そう考えると、まるで傷のついたCDを再生しているみたいに、そんな笑いが止まらなくなった。今、あたしが笑っているのは結局家庭を捨て切れなくて、あたしを捨てた愚かなあの男の卑怯さ。
今、あたしが笑っているのはそんな男から捨てられた事を嘆く、悲劇のヒロイン気取りの自分。
「あー、あんな奴の事、呪ってたって……救われないよねぇ」
思い切り泣いたせいだろうか、不意にあたしの頭の中でぱっと思考がそんな風に切り替わった。我ながら切り替えの早い性格というか、妙にそこが男らしく思えて、ぷっと吹き出してしまう。
「そういえば……明日、どんな顔して顔合わせればいいんだろ?」
会社でのあたしと男の関係は仲のいい同期で、男女の関係を超えたものだと周囲は見ていた。だから、多少男がドジを踏んであたしとの関係を匂わせても、悪い冗談としか思われなかった。恋愛中は支障がなかったあたしと男の元々の関係が、関係が壊れた途端、ずっしりと重くなる。
「まさか、いきなり余所余所しく振舞うのもなぁ……かといって、馴れ馴れしいもの―」
まぁ、自業自得なのだが、もう終わった恋愛で評判を落とすのはあたしとしては好ましくない。俗に言う、結婚適齢期というものをとっくに通り過ぎたあたし、今はそれなりの地位もある。人目を忍んで育てた長年の恋を失った上に、今まで築き上げた今の地位を失くすなんて、嫌だ。あたしは肩をすくめ、さっき投げ捨てたハンドバックから、自分の名刺を取り出し、読み上げる。
「K製菓株式会社、販売促進部部長、小阪 亜紀……ここまで来るのに、長かったものねぇ」
同期の友人が次々と寿退社していく中、上司の嫌味に耐えて、ここまであたしは登りつめた。同期の中で一番先に課長に抜擢された時、男たちからは「上役と寝たんだ」と陰口を叩かれた。だから、あたしはそんな腐った男たちになんか負けるもんかと半ば意地になって頑張ってきた。そして、いつの間にか陰口を叩いてた男たちはみな名前も知らない子会社へと出向していった。というよりも、あたしが彼らのミスを機会に、次々と人員削減の名目で切り捨てていったのだ。そんなあたしが実は男に捨てられたなんて知られた日には、もう笑い者にしかならないだろう。
「……お、おはようございます」
翌朝、あたしがオフィスに入ってくると、あの男が一瞬気まずそうな表情でそう挨拶してきた。そんなに気まずそうな表情を浮かべるなら、挨拶なんかしなくてもいいのだとあたしは思った。
「部長、おはようございます……あら、その花、どうされたんですか?」
お茶を運んできた女性社員があたしの持っている、スイートピーの花束に気付いて、訊ねてくる。そう、その花束はさっきから気まずそうにこっちを見ている男から昨夜贈られた、あの花束だ。
「ああ、貰いものなの……けど、一人で楽しむのも何だから、ここに飾ろうと思って」
「そうなんですか……確か、この花って―」
「スイートピーよ」
「へぇ……私、本物を見たのは初めてなんですよ。歌はよく歌うけど―」
女性社員は愛想良く笑いながら、まじまじとスイートピーの花束を見つめ、そんな事を言った。
「そうね、あなたのカラオケでの十八番だものね……ねぇ、この花の花言葉、知ってる?」
「え?いえ……実は知らないんですよ―」
屈託なくそう言って照れ笑いする女性社員に教えるフリをして、あたしは満面の笑みで答える。
「スイートピーの花言葉はね……別離、門出って言うのよ。異動する人に贈るのに最適でしょ?」
「そうなんですかぁ……え?どなたか異動、されるんですか?」
きょとんとあたしを見つめる女性社員越しに、男の表情が一瞬にして凍りつくのが見えた。そう、あたしたちの関係は終わった……だから、あたしがあの男のミスを見逃す必要ももうない。
「まぁ……正式な辞令が出るまでは内緒よ、正式な辞令がね―」
「そうなんですか……」
間抜けな声でそう呟く女性社員に苦笑しながら、あたしは彼女の入れてくれたお茶を手に取った。あの男があたしに直接別れを言わなかったように、あたしも彼に対して直接さよならは言わない。あの男があたしの心に鈍い棘を残して去ったから、あたしはそれ以上の棘を彼の心に与える。
「んー、美味しっ……さてと、今日も頑張るか」
オフィスの窓に映る、あたしの顔は今までにないほど、酷く優しく、そして幸せな顔をしていた。