プロローグ

夜の街 1

    涼は酷く慣れた様子で重い鉄製のドアを開けた。「ノイズ」としか表現できないような、無秩序な旋律たちが鼓膜を突き破らんばかりの大音量で襲いかかってきた。
    (別々に聴きゃぁ、いい曲かもしれねーが、これじゃ単なる騒音だな)
    そんなことを考えながら、入り口近くのカウンターでチケットと引き替えにドリンクの入ったカップを受け取る。
    (ったく、ごちゃごちゃしてんな。ってか、どこだよ、佐山たちのブースはっ)
    ホール内は幾つかのブースに仕切られ、そのブース内では既にそれぞれのバンドがライブ演奏を始め、それに観客がついている状況だ。無論、ほとんどがコピーバンドであり、自分たちのオリジナル曲を歌ってはいない。しかしながら、やはり人気のあるバンドの観客の数は圧倒的に多い。逆に、そうでもないバントは、友人を必死で掻き集めましたと言わんばかりの、お情け程度の観客しかいない。ブースごとに観客に関しては、悲喜こもごもなのである。
    (まぁ、誰もいねーよりはマシだろうけどな)
    涼はだらだらとお目当てである、友人の佐山がやっているバンド「ROA」のブースに向かった。そして、歩きながら、渡された先程のドリンクをほんの一口、口に含んだ次の瞬間だった。
    (マズっ! )
    思わずカップごと床に投げつけたくなる、そんな味が涼の口内に広がった。いくら斬新な味を目指したと言われようが、これは明らかに人間向けの飲み物ではない。一体どこのどいつが作ったんだと今すぐカウンターにねじ込んでやりたいが、わざわざ揉め事を起こすも面倒だから、やめておくことにした。
    (ま、いっか)
    中身ごとくしゃりと潰したカップを近くのゴミ箱にそのまま投げ込み、涼は佐山たちのいるブースに入った。だが、とっくに開演時間を過ぎているのに、客が誰もいない。しかも、ライブをやっているはずの佐山を初めとした、当の「ROA」のメンバーが途方に暮れた表情でステージに座り込んでいる。涼は何かしらの嫌な予感を覚えながら、声をかけた。
    「佐山、どうしたんだよ」
    涼のその声に気づいたように、佐山がのろのろと顔を上げる。その表情には、「意気消沈」という言葉がぺったりと張り付いていた。
    「涼……フミヤ、引き抜かれちまった」  
    フミヤ、それは「ROA」でボーカルを担当していた少年の名前だった。声が高くて、やけに生白くてなよなよした奴で、化粧して女装でもさせたら、普通に女として通用しそうだったというのが、フミヤに関する、涼の率直な印象だった。
    「はぁ? いつ、誰にだよ? 」
    「隣のブースで演ってる、『Frau』に、ついさっき」  
    佐山は涼の問いかけにか細い声でそう答えた。何でも、フミヤはビジュアル系のコピーバンドである「Frau」の方が女の子たちに人気があるからと、よりによって今日のリハーサル中に、突然の脱退を申し出たのだという。結果として、ベースの佐山と本宮、ドラムの長屋が残された。つまり、「ROA」存続の危機、いや、今日のライブすら危うい状況に追い込まれたのである。その脱退理由も、それを口にした時期から考えても、あからさまにふざけた話なのだが、人の好い佐山は何も言えずにそのまま見送ったのだという。ふと涼が隣のブースの少し高めのキーの歌に耳を傾けると、なるほど、歌っているのは明らかにフミヤだというのが判った。
    「佐山ぁ、馬鹿じゃねーの、お前」  
    頭を掻きながらそう言った涼の言葉に本宮と長屋もこくこく頷いて、佐山に責めるような視線を向ける。しかし、この人の好さが佐山のいい所だと理解っている。だから、涼はすぐにこうフォローした。
    「……けど、やり方が汚ねーよな。なら――」  
    涼はそこで言葉を切ったが、佐山を初めとしたメンバーは彼の言わんとすることを理解したらしい。
    「で、何を歌えばいいわけ? 」
    涼の言葉に佐山は先程までの様子が嘘のような、酷く弾んだ声でいくつかの曲名を告げた。フミヤに合わせていた高いキーさえ下げれば、涼がそれなりに歌える曲だ。  
    (まぁ、聴いてばっかなのも退屈だったしな。こーいうのも、たまには悪くねーか)  
    音合わせを済ませ、涼はすっとマイクを手に取り、背後にいる「ROA」のメンバーにちらりと合図を送った。  
    長屋のドラムがリズムを刻み、佐山と本宮のベースが唸り出す。そして、涼が歌い出す。こうして、「ROA」のライブが始まった。


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