〜祝福か予感か〜 風花が専門学校を卒業したのを祝って、純平は彼女を3泊4日の旅行に誘った。 「純ちゃん、これ……」 旅行最後の夜、純平が差し出した青いビロード張りの蓋付き箱をじっと見つめながら、風花は少し湿っぽい声でそう訊ねてきた。箱の中には風花の左手の薬指のサイズに合わせた、シンプルなデザインの指輪が納められ、彼女の薬指で輝くのを待ち侘びていた。 「ん。その、そろそろ、俺ら付き合って3年経つし、お前もちゃんと学校卒業したし、いい機会じゃないかなって」 「…………」 純平のその言葉に風花は何も答えず、差し出された箱に手を伸ばすことすらなく、ただただそれをじっと見つめていた。箱を見つめる、その瞳に戸惑いや不安、喜びといった様々な感情が混ざり合った複雑な色が滲んでいるのに気づき、純平は思わず風花の小さな身体を抱き締め、そっと彼女の耳元に囁いた。 「……俺はお前じゃなきゃ、駄目なんだよ。絶対、幸せにすっから。結婚しよう」 純平のそんな言葉が、一気に風花の感情の堰を切ったらしく、彼女はぽろぽろと涙を零して泣き始めた。ただ、風花が流す涙が喜びから来るのか、それとも不安から来るのか、純平には理解らなかった。 「幸せになるのが怖い」 風花が初めてそう口にしたのは、純平が医大を卒業したのを機に、彼が彼女にそれまで育み続けてきた長年の想いを告げた時だった。無論、以前から風花も自分に好意を抱いていたのを、自分たちが両想いだと理解った上での告白だった。しかし、風花はそんな純平の告白を最初頑なに拒んだ。自分は純平の実家である藤崎家に世話になっている立場であるし、彼には自分なんかより、もっともっと良い条件の相手がいるだろうという理由だった。 「んなの関係ねーし。その、オヤジもオフクロも、風花が戸籍上でもウチの家族になってくれればなって言ってるんだから」 想いを拒む理由を告げた風花に対し、純平は「そんなのは問題にもならないのだ」と、説得を続けた。しかし、風花は相変わらず頑なに首を縦に振らなかった。そして、震える声でこう呟いたのだ。 「幸せになるのが怖い」 その後、何度も何度も話をして、ようやく付き合うことになったが、やはり風花は折々に触れて、ぼそりと小声でそう呟いていた。 「……風花ちゃん、きっと幸せって手に入ったら、すぐに壊れると思ってるのね」 母親の小夜子が以前、淋しそうな微笑を浮かべてそんな事を言っていたことがある。小夜子の話によると、風花は優しい両親の元ですくすくと愛情を注がれて育ったのだという。だが、5歳の夏、風花は不慮の事故でそんな両親を亡くし、天涯孤独の身となった。肉親を喪った風花を引き取ることのできる親族が、いなかったわけではない。ただ、親権者となった祖母は既に高齢であり、まだ5歳の風花の世話をするにはいささか自信がないと口にした。そのため、四十九日を過ぎた頃、風花を親族の誰が引き取るかという話し合いが第三者も交えて行われた。ただ、その話し合いの場で、親族たちは風花を引き取る話ではなく、むしろ彼女に遺された財産の取り分をそれぞれまことしやかな理由をつけ、その醜さを露呈して争ったのだという。そのため、見るに見かねた純平の父親が、風花の親権者である祖母の了承を得て、彼女を自宅に引き取ることにしたのだ。そういった複雑な生い立ちもあり、風花は常に「幸せ」から、自分の身を無意識に遠ざけ続けた。幸せになるのが怖いと言い続けた。しかし、それも今日で終わりにしようと、純平は囁いた。 「私……幸せに、なっても、いいのかな? 」 純平の腕の中で、風花は誰に問うともなく、少し湿っぽい声でそう呟いた。 「ったく、何、当たり前のこと、言ってんだよ? お前は幸せにしてやる、俺が約束する」 純平はそっと指先で風花の涙を拭ってやりながら、彼女の柔らかな髪を撫でた。 「……ありがと、純ちゃん」 「おいおい、まだ泣くのは早いぞ。結婚式まで涙はとっとけよ」 「ん」 純平の言葉に風花は涙でまだ頬を濡らしたまま、ふっと無邪気に微笑した。そんな風花の笑顔に、彼女をきっと幸せにしようという思いがますます純平の中で大きく膨らんだ。 「あっ、風花(かざはな)だね」 春先だというのに、風にのってふわふわと白い欠片たちが、幸せの階段を上り始めた若い恋人たちの上に音もなく舞い落ち、すぐ消えるように溶けた。それが若い二人の明るい前途を祝うものなのか、それとも今後訪れる二人の幸せの末路を告げるものなのか、この時にはまだ、誰にも分からなかった。 |