It is no use crying over spilt milk
〜覆水盆に返らず〜

 ―もしも まだ 君の手を離さずにいたなら  
  もしも まだ 君を大切に抱きしめていたらなら  
  僕はまだ シアワセ 感じることができてたのかな? ―
 週末、人でごった返す街の広場、純平は見知った顔を見つけて、思わずその背中を追っていた。以前、自分の病院に急患として運ばれてきたナルサワという男の家族だという少女は一緒に来た誰かとはぐれたのか、人捜し顔で不安げに周囲をきょろきょろと見回している。
  ”純ちゃん、歩くの早いよ。こんなに人が多いと、私、はぐれちゃう”
  ”純ちゃん、手、繋いでくれる? ”
  ”純ちゃん、大好きっ! ”
 ”純ちゃん、純ちゃん、純ちゃん……”
 少女のそんな姿を眺めていた純平の耳に不意に誰かがそう囁いた。それは現在失踪中の妻、風花がまだ感情があった頃、幸せだった頃、手を繋ぎたがっていた時、よく言っていた言葉。あの頃はまだその大切さに気づいていなかった。風花が自分にとってどれだけかけがえのない、愛しい存在だったのか、側に居てくれるだけで良い存在だったのか、彼女がいなくなった今になって初めて、痛いほどよく理解る。  自業自得  風花が失踪したことを告げると、事情をあらかた知っていた周囲は表面上は慰めや励ましの言葉をくれたが、腹の中ではきっとそう思っていたのだろうか。秋奈という看護師と不倫し、彼女と一緒になって風花に精神的及び肉体的に暴力を加え続けた。それによって、愛すべき風花は、そして、彼女と築いていた幸せは……粉々に跡形もなく崩れ去った。それ以来、風花のそのふくよかな身体は痛々しいほどに痩せ細り、艶やかな黒髪は色を失い、豊かだった表情は無表情となり、あけすけだったココロは固く閉ざされ、まるで鼓膜を溶かすように甘かった声は二度と聞けなくなり、ぼそぼそと起伏のない声に変わった。
  ”センセーには関係ありませんから”
  ”センセー、今更それを言って、何か変わるんですか? ”
  ”機械に繋がれてまで、生きてたいとは思いません。それはセンセーのエゴだから”
  「何を重ねてるんだ、俺は」
 自分が失踪中の妻の以前の姿にそっくりな少女に彼女を重ねていることに対し、純平はふと小さな微苦笑を洩らした。ナルサワという患者が入院していた頃、少女は毎日のようにせっせと病院に通い、彼の世話をやいていた。純平はその姿を微笑ましく見守り、そして機会がある度、何かしらの話題で少女に話しかけた。少女の名はあゆみ、何でもナルサワとは夫婦なのだという。最初は相当質の悪い冗談だろうと思っていたが、入院時に提出された書類にもそう記載され、あゆみとナルサワの姿を見ていると、それが事実なのだと思い知らされた、その時の軽い絶望感や脱力感は今でもはっきりと思い出すことが出来る。勿論、純平もあゆみと風花が別人であることは理解している。だが、あゆみの仕草で風花を思い出すのは仕方がないことであり、彼女と何かしらの形で関わることは決して罪悪だとは思っていなかった。そうすることでしか、今、風花との関わりを保てない、そんな気がした。だから、あゆみに思わず声をかけてしまったのも、致し方ないことだった。
  「鳴沢、さん」
  「え? あ……藤崎先生」
 唐突に声をかけられたせいだろうか、あゆみは一瞬驚いたような表情を浮かべた後、にっこりと無邪気に微笑んだ。別人のはずなのに、その笑顔があまりに風花にそっくりで、純平は思わず眩暈を覚え、抱きしめそうになり、かろうじて理性でそれを踏みとどまった。
  「……あの、ウチの主人、見かけませんでした? あそこの店でクレープ買ってくるからここで待っててって言ったのに、いないんですもん」
  なるほど、よく見ると、あゆみの手にはできたてのクレープが湯気を上げている。
  「ああ、ご主人は、見かけないね……まぁ、この混雑だからね。こ、ここで立ち話も何だし、あそこのベンチに座りませんか? 」
 純平が空いたベンチを指さしてそう提案した次の瞬間、彼の背後から低い男の声が響いた。
  「あゆみ! 」
  純平が振り向くと、そこにはナルサワがオレンジジュースとコーヒーの缶を抱えて、半ば呆れ気味に立っていた。どうやら、ナルサワはあゆみのために飲み物を買いに行っていたらしい。ナルサワはあゆみの側にいる純平に軽く目礼をした後、そっと彼女の隣に立ち、空いた片方の手でその髪を撫でた。
  「あ、涼……良かった、また私、迷子になっちゃったかって心配したんだよ」
  「あー、悪りぃ、悪りぃ……ほら、ジュース。お前、このメーカーのが好きだろ? 」
  「わーい、ありがと……そだ、藤崎先生」
  あゆみが先程から自分たちを複雑そうな表情で見つめる純平に気づいて、慌ててナルサワの袖を引いた。ちゃんと純平に挨拶をしろというあゆみの合図らしく、ナルサワはあからさまに社交辞令と言わんばかりの作り笑顔で向き直った。
  「ああ……その節は大変お世話になりました。妻がご迷惑をおかけしたみたいで、すみません」
  「い、いえいえ……」
  「先生もどなたかと待ち合わせなさってますよね。お時間をとらせてすみませんでした」
  「え? 」
  「……それでは、失礼します」
  「え、あ……」
  あゆみにも純平にも有無を言わさない口調でナルサワはそう言い放つと、彼女を促して彼の横をすっと通り過ぎようとした。純平があゆみの背中に何か慌てて言葉をかけようとした時、涼が低い声で静かに彼にだけ聞こえるように英語でこう呟いた。
   ”Will it be your natural consequence It is no use crying over spilt milk? (覆水盆に返らず、アンタの自業自得だろ? )”
  急に流暢な英語で何かを呟いた夫に不審そうな視線を一瞬向けたものの、あゆみは酷く嬉しそうに彼の腕を掴んで歩いていく。そんな2人の姿を見送りながら、純平は更に低い声でこう返した、いや、こう言うしかなかった。
   ”I understand. But I am hopeless.(理解ってるさ、でも、どうしようもないじゃないか)”
  だが、その呟きは週末の賑やかな声に掻き消され、誰の耳にも届かなかった。

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